柳之御所(やなぎのごしょ)は、文治5年(1189年)、源頼朝の28万余の大軍に攻められ炎上した。
今日、建造物は一切残されてなく、平泉の世界遺産登録指定を得るための整備工事が進行
中で、柳之御所跡は広々とした更地になっている。
「柳之御所跡整備工事説明掲示板」
昭和63年(1988年)の大規模調査、平成10年(1999年)の本格的発掘調査によって発見された
遺構、出土した品々によって往時を想像するほかはない。
しかし、この広大な柳之御所跡の空間に対峙するだけでも、充分に平泉の威勢を感じる。
「柳之御所跡案内掲示板」
発掘調査の出土品は、柳之御所跡地の近くにある柳之御所資料館に展示されている。
柳之御所は、藤原氏初代清衡が豊田館(岩手県江刺市)から移ってきて居館をかまえた所であり、「吾妻鏡」の記述にある藤原氏の政庁・平泉館(ひらいずみのたち)の跡と考えられる。
中尊寺の南東に位置し、柳之御所から北西方山上の金色堂を望むように造営された。
「吾妻鏡」の記述内、藤原氏を滅ぼした源頼朝に中尊寺・毛越寺の僧侶が提出した8か条の報告書「寺塔已下注文(じとういかちゅうもん)」の第7条には平泉の姿が記されている。
「一、館の事
秀衡 金色堂の正方 無量光院の北に並べて 宿館を構う 平泉館と号す
西木戸に嫡子国衡の家あり
同四男隆衡の宅これに相並ぶ
三男忠衡の家は泉屋の東にあり
無量光院の東門に一郭を構う 加羅御所(伽羅之御所)と号す 秀衡の常の居所なり
泰衡これを相つぎ居所となす」
柳之御所の名前は、伽羅之御所の名前に対比して、後世に名づけられた。
北上川の西側に平行して、猫間が淵(ねこまがふち)と呼ばれた自然の低地を人工掘削した
細長い沼地があった。柳之御所は、この猫間が淵と北上川との間の台地に、沼地と川とを
堀に見立てた城郭のように造営された。
猫間が淵には水位調節のための堤防も設けられていた。
現在、猫間が淵跡の南沿いに道が作られ、高館義経堂へと繋がっている。
現在は整備工事のため更地になっていて、高館義経堂のある小高い丘が遠望できる。
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柳之御所の敷地は北西から南東に緩やかに下っていて、北上川に沿って細長く最大幅は212m、総面積112.000 u(東京ドームの2.5倍)。
北上川が流れを変えて西岸を浸食しているために現在の敷地は狭くなっているが、昔日は
、現在の北上川の中央あたりまで広がっていたのではないかと思われる。
細長い敷地を2分するように北上川西岸から南北に伸びる掘の跡が発見されているが、幅
10m、深さ4m、長さ500mにおよぶ規模の大きなもので、外敵進入を防ぐ目的であったの
か、空堀であった。
堀と平行して、ほぼ南北に走る幅8mの側溝を持つ道路があり、堀と側溝の二重堀構造となっている。
堀の2ヵ所に橋の跡も見つかっている。この道路は堀南端にある橋を渡って、秀衡の居館
・伽羅の御所とを結んでいたと思われる。
この堀によって敷地は「堀の内」(敷地南東部)と「堀の外」(敷地北東部)に分けられていた。
「堀の外」の中央を、掘から北西の金色堂に向かって幅広い道路が貫いている。
この道路の北西延長線上には山上の金色堂があり、柳之御所・「堀の内」から金色堂をはるか見通すための空間でもあったと思われる。
「堀の内」と「堀の外」がどのように区別されて使用されていたかは解明されていないが、柱
穴跡から「堀の内」の建物が大規模であったこと、2度の立て替えがあったことが窺える。
池泉跡も発掘されたが、毛越寺、観自在王院、無量光院の浄土式庭園とは異なり、馬蹄形
の池泉である。池泉も2度の改修を経ていることが分かったが、藤原氏がどのような意図
でこのような形式の庭園を造営したか不明。
大規模発掘調査が行われた結果、磁器・陶器の壺や椀、かわらけ(素焼き土皿)、古銭、銅
鏡、下駄、塔婆(とうば)など往時を偲ばせる重要品々が出土した。
これら出土品の中でも、量の膨大さで郡を抜くのが素焼きの土皿「かわらけ」である。空堀
、井戸、池泉、道路側溝など御所内のいたる所で発掘され、出土総量は20トンにも達した
。
「かわらけ」は本来、祭祀で用いられるものであるが、柳之御所の盛大な宴で使用され、使
用後は使い捨てられるものであったため、このような膨大な量になった。
「かわらけ」は、外側(底部)に烏帽子にひげを蓄えた男の顔を線刻したものが発見されてい
る。
人面墨書土器と呼ばれるもので、平城京(奈良時代)の道路側溝や河川からも大量に出土し
ている。
他に穴を開けたものがあり、これは祭祀(呪術)に使用されたと思われる。無傷のまま出土したものも多く、深い穴の中にまとまって埋められていた。
都市・平泉は、周囲の農村と区別され「平泉保(ほう)」と呼ばれた。
しかし、平泉の規模は、奥大道(中世の奥州街道)入り口の毛越寺から柳之御所や中尊寺一帯までの狭い地域だけではない。
「平泉保」の外、中尊寺北方の衣川を越えた「衣河」地区には秀衡の舅・藤原基成の居所、源義経が寄宿した衣河館、中尊寺の子院などが並び、一大産業・商業地があったと推測される。
「吾妻鏡」の文治五年九月二十七日条によれば、「産業海陸を兼ぬ」とあり、海陸の物資が取
引されていたことが記録されている。
また、絵小戸時代・安永年間1773〜1780年の仙台藩内の村々の記録である「安永風土記」に
よれば、藤原氏滅亡後の鎌倉時代にこの地域に「河原宿」という町場があり、古宿、宿、六
日市場、七日市場、十日町などの町場伝承が記述されている。
平泉が、南の政治都市と北の産業・商業都市が融合して機能する複合都市を形成、京の都
に肩を並べる栄えた都市であったという証である。
ここは、悠久の歴史大河のなかの平泉の繁栄を知るためには必訪すべき場所のひとつ。
数々の展示品のみならず、大型ディスプレイのCGによる平泉再現映像は必見。
再現された往時の平泉の繁栄ぶりに圧倒される思いがする。
平泉訪問・観光は、先ず、この柳之御所資料館で予備知識を得ることで、理解度も有意義
さも満足度合いも数倍に膨らむ。
展示室には、発掘調査によって出土した品々が詳細解説付きで展示されている。
発掘調査は略年表:
昭和48年(1973年:一関遊水地事業に伴う堤防工事と国道4号線のバイパス工事が計画され
る。
昭和50年(1975年):堤防事業着工。
昭和56年(1981年):バイパス事業着工。事前発掘調査で遺構発見。
昭和63年(1988年):大規模事前調査が行われたところ、多くの重要な遺構と貴重な遺物が
発見され、その埋蔵状態もきわめて良好であった。
平成5年(1993年):その歴史的価値から工事計画は変更され、遺跡は破壊を免れた。
平成9年(1997年):国の重要史跡の指定を受ける。
平成10年(1999年):遺跡の整備・活用を目指して本格的な発掘が開始された。
平成11年(2000年):11月11日、柳之御所資料館が開設され、これまでの発掘成果が公開・
展示されている。
発掘調査次数は昭和44年(1965年)から51次にも及んだ。
出土品:
大型建築物、池泉、井戸、堀などの遺構から、木製、金属製、石製、土製の多種多数のも
のが出土した。
銅印「磐前村印」(いわさきむらいん、右図参照)、
中国から輸入された白磁四耳壺(はくじしじこ)や黄釉褐彩四耳壺(おうゆうかっさいしじこ)、
中国景徳鎮産の白磁碗、青磁椀・皿、陶器(甕、壺、鉢、椀、皿)、
かわらけ・塔婆・人形・鳥形などの祭祀具、
ひしゃく・はし・椀皿・砥石などの生活用具、
漆器、装身具、化粧道具、文房具、遊戯具、工具、将棋駒、下駄、火おこし道具、銅鏡、烏帽子、古銭(政和通宝)、
往時を偲ばせる重要品々が掘り出された。
特に、釉薬をかけない素焼きの土皿「かわらけ」は形状や製法が様々、発掘量が膨大で、藤
原初代・清衡時代の一群のものを含めて総量20トンにもおよび、この事実だけをもってし
ても、平泉の想像を絶する繁栄ぶりが窺われる。
柳之御所資料館
所在地:岩手県西磐井郡平泉町平泉字伽羅楽108−1
TEL:0191-34-1001
開館時間:9:00〜16:30
休館日:月曜日、年末・年始
入館料:無料
柳之御所は常時公開されている。団体で説明を希望する場合は、事前連絡が必要。
岩手県教育委員会事務局障害学習文化課 柳之御所担当
TEL:019−629−6182
柳之御所遺跡発掘調査事務所
TEL:019−46−2820
藤原氏は3代秀衡に至って隆盛を極め、秀衡は鎮守府将軍および陸奥守に任じられて、柳之御所が藤原氏の政庁として機能するようになった。
そのため、秀衡は、柳之御所の南側堀を隔てて、新たに西南隣接地に居館として伽羅の御所(きゃらのごしょ)を設けた。
子息たちの屋敷も周囲に並んでいる。
「伽羅之御所説明掲示板」
2代・基衡の時代、平泉の中心は毛越寺と観自在王院にあったが、3代・秀衡の時代は柳之
御所と伽羅之御所の一帯が平泉の政事の中心になった。
現地を訪れると、今では伽羅之御所入口の跡を示す案内柱があるだけで、周囲は民家と畑
地になっていて、僅かに内堀跡や土塁の一角跡が見つかってはいるものの、往時を偲ばせ
る光景はまったく無い。
遺跡の井戸跡から金銀の蒔絵箱に納められた和鏡が見つかっているが、民家が密集してい
る地域のために大規模発掘調査を行うことができず、伽羅之御所の詳細は不明である。
伽羅之御所の西北に隣接して、浄土式庭園の無量光院が造営された。(無量光院の項参照)
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