中 尊 寺

 

藤原清衡と平泉

奈良時代、聖武天皇の治世、天平21年(749年)に奥州陸奥(おうしゅうむつ)国で金が産出されたとの報告が都に届いた。
これを契機として、当時、蝦夷(えぞ)と呼ばれる辺境地であった奥州に対する中央政府の征夷が開始された。

延暦20年(801年)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷地を平定した後、奥州の支配は土着の勢力に徐々に委ねられ、陸奥の安倍氏、出羽の清原氏のように旧来の蝦夷とは異なった権力が台頭してきた。

中央政府で勢力を拡大した源氏が東北政策に乗り出し、陸奥守鎮守府将軍であった源頼義(みなもとのよりよし)が東国への勢力拡大を画して「前九年の役」で安倍氏を討ち、頼義の子義家(よしいえ)が清原氏を打つべく「後三年の役」を起こした。
これらの出来事は朝廷の反発を買い、源氏と朝廷の長年にわたる確執の源となった。
安倍・清原氏の後継者として残ったのが藤原清衡(ふじわらのきよひら)である。
(別項 歴史の大河参照)

藤原清衡

藤原清衡は天喜4年(1056年)、亘理地方(わたり、宮城県)に中央政府官吏として赴任後に安倍氏の女婿となった藤原(亘理)経清(ふじわらつねきよ)の子として生まれた。
前九年の役で安倍氏が滅ぼされ、父を失った後、母が安倍氏の娘ではあったが、敵方であった清原氏に再嫁したため、清衡は清原氏のもとで成長する。

後三年の役(1083〜1087年)で清原氏が滅亡し、中央政府の命により源氏が引き払った後、清衡は32歳で奥六郡の正統後継者として領地を治める立場に立った。


後継者として江刺郡豊田館(とよだのたち、盛岡市)で数年内政に専念した後、政治家としての歩を進めるため上洛した清衡は、整然とした京の町、大伽藍をかまえる寺社を中心とした仏教文化に圧倒され、自領に京をしのぐ都を造るべく決心を固めた。
その為には政治家として源頼義、義家の轍を踏まぬよう細心の配慮を行い、朝廷・公家からの反感を受けぬよう定期的な貢物で彼等を懐柔し、朝廷の干渉を得ずして東北に都を築く戦略を立て、ひたすら実行の機をうかがった。

康和元年(1099年)、機が熟したことを知った清衡は江刺郡豊田館を出て、衣関(ころものせき)の南、衣川を南に渡った水運の便も良い磐井郡平泉で都造りに着手した。

平安時代初期まで、平泉北方の衣関・衣川は南北奥羽の境界線であるばかりでなく、日本列島の南北文化・政治の境界線であり、中央政府(朝廷)の威の及ぶ「日本国」と未知の国「蝦夷(えみし)」との境界線であった。
坂上田村麻呂の東征後、衣川以北の土豪は中央政府に帰順して「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれたが、尚、中央政府の意のままにならぬ存在であった。
清衡が、その俘囚の地から、俘囚の地「奥六郡」の最南端の地、日本列島の南北文化・政治の境界地域に進出したこと、そして、その後の藤原氏がこの地にとどまって南下しなかったことは着目に値する。

当時の奥州は、金、優秀な馬(戦に不可欠)、豊富な農産物を産出し、これらの財力が清衡から続く藤原氏の栄華の源泉となった。

関山中尊寺山号

はじめに白川関から外が浜(陸奥湾)に至る交通路の整備を行った。
20日余の行程の道筋に1町(約100m)ごとに笠卒都婆(かさそとば)を立て、その笠卒都婆には金色の阿弥陀像を描かせた。

平泉はこの交通路の中心点にあり、山頂の中尊寺に1基の塔を建てた。寺院中央の堂宇には釈迦像と多宝像を安置し、その中間に関路を設けて旅人を通行させた。
これが、中尊寺の山号が「関山」と称される謂れとなった。

大治元年(1126年)頃には、釈迦堂、二階大堂、金色堂などが次々と建立され、中尊寺は壮大な伽藍となった。
宋版一切経五千余巻が博多の貿易商によってもたらされ、紺紙金銀字交書一切経に書き写された。


中尊寺境内に南方の日枝社、北方の白山社が勧請されたのは京都の信仰に従ったものと思われるが、京の都をも凌ぐほどの平泉の建設は、奈良時代以降、絶え間なく続けられた中央政府による奥州抑圧の歴史に対する清衡の果敢な挑戦が原動力であり、中尊寺の伽藍を整え、金色堂を建立したことは清衡の生涯をかけての中央政府への挑戦が勝利に終わったことを意味する。

以後の100年間、藤原初代・清衡治政33年、2代・基衡も33年、3代・秀衡も33年、平泉は京を圧倒する隆盛を誇ったのである。

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関山中尊寺

嘉祥3年(850年)、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん、794〜864年)の開山による天台宗・東北大本山。
山号は関山(かんざん)。
余談だが、福島県から下北半島の間には、瑞巌寺(松島)、立石寺(山形)、円通寺(恐山)など、円仁が開いたとされる古刹が点在している。

円仁は、嘉祥3年(850年)に弘台寿院(こうだいじゅいん)を開創し、清和天皇(858〜876年)から中尊寺の号を賜った。

中尊寺山門

250年後、中尊寺は藤原清衡の手により再興され、2代基衡・3代秀衡が寺域の拡張を行った。
長治2年(1105年)、奥州平定後、藤原清衡は先ず最初院(さいしょいん)を建立し、その後の20年間に中尊寺伽藍を整えた。
金色堂もこの当時(天治元年、1124年)に上棟をむかえている。

藤原氏治世100年の平泉文化隆盛の間、中尊寺の最盛期には多宝塔や二階大堂など40余の堂塔、300以上の僧坊を数えたといわれる大伽藍(がらん、寺院の建物配置域内)であったが、4代泰衡が源頼朝軍に滅ぼされると中尊寺も衰退し、建武4年(1337年)の野火で金色堂と経蔵の1階部分を残してほとんどの堂塔を焼失した。
二階大堂は中尊寺伽藍の奥、現在の白山神社付近にあった。

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「吾妻鏡」によれば、二階大堂は平安時代最大の阿弥陀堂で、高さ五丈(15m)、堂内には高さ三丈(9m)の阿弥陀坐像が鎮座し、左右には8体の丈六阿弥陀坐像が安置されていた。
藤原氏を滅亡させた後、平泉に入った源頼朝は、その威容を目の当たりにして圧倒され驚愕したに違いない。

中尊寺再興目的や伽藍詳細を今日に伝える資料として、中尊寺建立供養願文(くようがんもん)と中尊寺寺塔已下注文(じとういかちゅうもん)がある。

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中尊寺供養願文

中尊寺供養願文(くようがんもん)は、中尊寺の堂塔伽藍の落慶(建設・修理の完成を祝う催し)の折に清衡によって読み上げられた書面といわれるが、原本は残されていない。

中尊寺供養願文

顕家本(下記参照)の奥書(おくしょ、書物巻末の署名や書き写し年月日など)によれば、供養願文の作者は藤原敦光(あつみつ)とあり、当代随一の文章家であった。

「敬白。建立供養し奉る。鎮護国家大伽藍一区のこと」の書き出しに続き、建立した堂宇や安置した仏像の一つ一つの大きさや様子が詳細に記されていて、伽藍の威容を知ることができる。
巻末は、「天治三年三月二十四日 弟子 正六位上 藤原朝臣清衡 敬白」で閉じられている。
天治は平安時代後期の崇徳天皇時代の年号(1124〜1126年) で、天治3年は1月22日で終わって、大治(1126年1月22日〜1131年1月29日)に変わっている。

中尊寺供養願文の中に、清衡の中尊寺再興の目的が以下のように記されている。

第一に奥州での長い戦乱の間に落命した敵・味方の霊を祀り、浄土に導くこと。
第二に京と同等、またはそれ以上の仏教文化の都を造営すること。
第三は奥州の安寧と繁栄の祈願である。


現在、2通の写本が残されており、ともに重要文化財である。

1.輔方本(すけかたほん)
藤原輔方が嘉暦4年(1329年)に奥書と端書(はしがき、書物や文章の序章)を書いたもの。
輔方は鎌倉の能書家として知られていた。

2.顕家本(あきいえほん)
北畠顕家が延元元年(1336年)または2年に書き写したもの。顕家は南北朝時代の南朝の武将・北畠親房(ちかふさ)の子で、16歳で陸奥守になって奥州に下向した。
中尊寺供養願文

北畠顕家の書写が「讃衡蔵」(さんこうぞう、中尊寺宝物館)に展示されている。

 

近年、供養願文写本を精査したところ、書面に中尊寺の文字が無く、供養願文作成時には既にあったはずの金色堂や二階大堂などの記述が無いことから、残されている供養願文写本は清衡が読み上げたものではない願文の草案か、毛越寺に関して書かれたものではないかという説が出てきている。

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中尊寺寺塔已下注文

中尊寺の庇護者であった藤原氏が源頼朝に滅ぼされた後、中尊寺経蔵別当(べっとう、執事役)の心連(しんれん)は、源頼朝の命により、「中尊寺寺塔已下注文」(ちゅうそんじ じとういかちゅうもん)を提出し庇護を訴えた。

中尊寺寺塔已下注文は中尊寺の詳細を報告するもので、鎌倉幕府の公式記録書「吾妻鏡」(あづまかがみ)の文治5年( 1189年) 9月17日条に記録されている。
信連の報告を受けて、源頼朝は、仏性(ぶっしょう。仏前に供える米飯)、灯油、田畑などを与えている。

中尊寺寺塔已下注文には、堂や塔の様子や数、仏像の種類・大きさや数量が詳細に記されている。
当時、源頼朝が平泉に来ていたこともあり、記載内容の信憑性は高いと思われる。
毛越寺、無量光院、秀衡の館についても記述があり、多少の誤りや誇張があったにせよ、中尊寺や毛越寺の規模の壮大なこと、最盛期の平泉文化の隆盛に圧倒される。

「関山中尊寺の事、寺塔四十余宇。禅坊三百余宇也」と中尊寺の規模を報告し、二階大堂は「高五丈。本尊三丈金色阿弥陀像。脇侍九体。同丈六也」、金色堂は「上下四壁内殿皆金色也」とある。

毛越寺については「堂塔四十余宇。禅坊五百余宇也」の規模と、藤原2代基衡が創建時に本尊の創作を運慶に依頼したときの逸話(毛越寺の項参照)を記している。

あわせて、無量光院、年中恒例法会、秀衡館、藤原清衡が白川関(福島県)から外が浜(青森県・津軽) まで、路一丁別(みちいっちょうごと)に傘卒塔婆(かさそとば、仏舎利塔)を設けたことなどが記されている。

中尊寺の二階大堂の報告は、後に源頼朝が鎌倉に建立した永福寺(ようふくじ)に用いられた。

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金色堂

金色堂は、清衡が15年の歳月をかけて造らせた金色の阿弥陀堂。国宝第1号

清衡69歳の天治元年(1124年)の上棟(柱など骨組みし最上部に棟木を上げる儀式)で、4年後の清衡没年の大治3年(1128年)には完成していたと思われる。
経蔵と共に中尊寺創建当初の遺構として残っている。
金色堂外観覆堂

中尊寺の堂塔伽藍の落慶(建設・修理の完成を祝う催し)の折に、清衡によって読み上げられた中尊寺供養願文(くようがんもん)の巻末は、「天治三年三月二十四日 弟子 正六位上 藤原朝臣清衡 敬白」で閉じられている。

中尊寺供養願文は、「敬白。建立供養し奉る。鎮護国家大伽藍一区のこと」の書き出しに続き、建立した堂宇や安置した仏像の一つ一つの大きさや様子が詳細に記されていて、伽藍の威容を知ることができる。

天治3年は1月22日で終わって、年号が大治(1126年1月22日〜1131年1月29日)に変わっているが、天治3年の中尊寺落慶の時期には金色堂は存在していたはずである。
が、何故か、中尊寺供養願文に金色堂のことは記載されていない。

記載されていない理由は今もって不明だが、金色堂上棟が清衡69歳の時であったことから、また、後述の堂内「皆金色」の極楽浄土現出を意図したことから、近年の死を予期した清衡が中尊寺伽藍とはしない「自らの葬堂」として建立したのではないかと思える。


金色堂と対面してみる。
金色堂外観覆堂
屋根は、木材を瓦のような形にして葺く「木瓦葺き」(こがわらぶき) と言われる珍しい様式。

金箔で堂の内側が覆われているので「金色堂」名がある。
創建時から「皆金色」(かいこんじき)の仏堂と呼ばれたが、伽藍の内外全体を金箔で覆うという例は、中尊寺以前には皆無であり、まさに贅を尽くし荘厳さに満ちた極楽浄土の現出である。

 

金色堂内陣

金色堂の建立にあたり、都から優秀な工人を多数連れて来たことや、4本の巻柱(まきばしら)、長押(なげし)、蛙股(かえるまた)に使用されたアフリカ象の象牙や螺鈿細工(らでん)の南海産夜光貝等を見るにつけ、奥州産出の金や物産を礎にした清衡の莫大な財力が偲ばれる。


蒔絵(まきえ)、螺鈿、渡金(ときん)、毛鬘(けまん)の透し彫り等の高度な技法を用いた装飾の美しさは、藤原文化の水準の高さを示す。


長押(なげし):
柱から柱へ水平に渡された柱を連結する構造材。貫(ぬき)が用いられるようになって装飾化した。

金色堂内陣蛙股

蛙股(かえるまた)
蛙が地面に足を広げて踏ん張る形に似ている構造材。柱間に渡された梁の上に設けられ、二等辺三角形の頂点(頭)にかかる天井の重みを左右の2辺(足)に分散させる役目がある。


蒔絵(まきえ):
漆で模様を描き、漆が乾かないうちに金・銀・錫などの金属粉や顔料粉を蒔き散らして、描いた模様を美しく引き立たせる技法。


華鬘(けまん):
仏堂の内陣や欄間に下げられた金銅を透かし彫りにした団扇形状の飾り。

螺鈿(らでん):
貝殻の白色部分や光を反射する部分を磨いて文様に切り取り、木地に嵌め込んだり漆地に埋め込んだ装飾技法。

鍍金(ときん):
メッキ。青銅などの金属の表面を、金・銀などの異種金属の薄膜で被覆する技法。金銅仏は青銅で仏像を鋳造して金で鍍金をしている。

天井
天井は螺鈿に彩られた縁から一段と高く織り上げられ、井の字形に組まれた格縁(ごうぶち)にさらに小さな格子が組み込まれた格天井(ごうてんじょう)は力強く金色に輝き、格縁の交差部分は透かし彫の華模様の金具が打たれていて、交差中心点には白銅鏡が嵌められている。

天井中央から仏像の頭上に吊るされる天蓋(てんがい)は、八陵円形の木製、周囲には宝相華唐草文(ほうそうげからくさもん)の透かし彫りめぐらされ、金箔が施されている。

柱間に渡された梁の上で天井の重みを支える蛙股は、二等辺三角形の頂点にかかる重量を左右の2辺に分散させる役目があるが、金色堂内の蛙股は丈が高くて両足が細く、螺鈿装飾が施されていて、建築構造上の役割よりは装飾として貼り付けられている。

この豪華絢爛の天井は、夜光貝の螺鈿が施された柱、黄金の装飾物と見事に調和して、須弥壇の仏像をいっそう神々しい姿にしている。

内陣巻柱
金色堂は三間四方で東を向いて立てられている。創建当初の内陣は須弥壇の左右部分は無く、中央部分の須弥壇(しゅみだん)のみが据えられ、4本の巻柱が天井・屋根を支えていた。

金色堂内陣巻柱

金色堂内陣巻柱

巻柱は木柱に麻布が貼られた上に漆を塗り込め、夜光貝の螺鈿細工を施してある美しいもの。

各柱とも上下九つの区画に分けられていて、上方の3区画には打ちつけられた白銅板の光背の中に金銀の研ぎ出し蒔絵の菩薩像が4面づつ、計12体描かれている。

巻柱下方の3区画は夜光貝の螺鈿で宝相華唐草文(ほうそうげからくさもん)が施されている。

各区画の境目は魚々子地(ななこじ、魚卵形模様)の金銅の帯が巻かれ、その帯に連珠文の飾り鋲が打たれている。

4本の巻柱に48体の菩薩が描かれていることになるが、大無量寿経の阿弥陀四八願にちなんでいるのではないかといわれている。

三壇からなる須弥壇上には本尊・阿弥陀如来、本尊の前左右に観音菩薩・勢至菩薩、左右に3体ずつの六地蔵、最前列は持国天・増長天の11体が1組で三壇、堂内合わせて33体の仏像が安置されていたと思われるが、現在は西南壇(向かって左側、基衡公)の増長天は失われているので、計32体となる。

須弥壇
須弥壇は、はじめ清衡によって中央部が作られ、3代秀衡が父の2代基衡の遺体安置のために左右の壇を増設したと思われる。
金色堂内陣諸仏配置図
中央の須弥壇(清衡壇)内部には初代・清衡公、左側の壇(西南壇)には2代・基衡公、右の壇(西北壇)に3代・秀衡公のミイラと4代・泰衡公の首級が納められている。

三壇からなる須弥壇は、それぞれに、中央に阿弥陀如来坐像を配置している。


「吾妻鏡」の文治5年(1185年)9月17日条「中尊寺寺塔已下注文」の金色堂の記述には「堂内に三壇構ふ、悉く螺鈿なり、阿弥陀三尊、二天、六地蔵、定朝之を造る」とある。

定朝(じょうちょう、生年不明〜1057年)は、宇治平等院の阿弥陀如来坐像の作者として名高く、「定朝様式」と呼ばれる作品は「仏像の本様」とまで言われていた。
金色堂の阿弥陀如来坐像を定朝作と記述してはいるが、定朝様式ではあるものの、京から呼び寄せた他の仏師の作であろう。

中央須弥壇の本尊・阿弥陀如来坐像は高さ62cm、木造、漆箔、定朝様式の穏やかな面相をしている。

本尊の前方左右に並ぶ脇侍(わきじ)立像は向かって右が観音菩薩、左は勢至(せいし)菩薩。 観音菩薩、観音菩薩ともに高さ74.3cm、木造、漆箔、重要文化財である。
観音菩薩は左手に蓮の蕾を持ち、慈悲をもって衆生を導き、勢至菩薩は右手に蓮の華を持ち、知恵をもって供養する。
この3体の仏像を一組とする「三尊形式」は、経典「観無量寿経」に具体的に記述されてわが国に伝わり広まった。
金色堂内中央須弥壇
本尊の前でダンスをしているような動的な姿は、向かって右が持國天(じこくてん)、高さ64.5cm、木造、漆箔、左が増長天(ぞうちょうてん)、高さ66.2cm、木造、漆箔、ともに重要文化財である。

この2体は、本来は、持國天が東方、増長天が南方の守護として、西方守護の広目天(こうもくてん)、北方の多門天(たもんてん)と、合わせて四天王像として祀られる像である。
金色堂須弥壇上に広目天と多門天は無い。
西南壇(向かって左側、基衡公)の増長天は失われている。

三尊の両側には縦列に3体づつ計6体の地蔵菩薩立像が並んでいる。
地蔵菩薩は、地獄に落ちる恐怖を除き、人間が生死を繰り返す六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)からの救済を担う菩薩。
戦乱の殺戮に明け暮れた時代にあって、地獄へ堕ちる恐怖から救済されたいと願う清衡の思いの表れか。
高さ62.8〜63.6cm、木造、漆箔、ともに重要文化財である。

中央須弥壇
絢爛豪華・繊細優美の装飾が施されている。
中央須弥壇は格狭間(こうざま、装飾を施すために矩形に彫り込んだ部分)の左右に宝相華(ほうそうげ)の上に蝶が舞い、覆輪金具で縁取られた中央凹部には孔雀と宝相華が浮き彫りされている。

孔雀の翼には繊細な羽模様の毛彫りが施されている。尾羽には猪目形(いのめ)の穴があいているが、美しい色の玉が嵌め込まれていた。
孔雀は阿弥陀浄土の蓮池に舞う鳥であることからも、金色堂が極楽浄土の再現を図ったものであることが窺える。

西南須弥壇
向かって左側、基衡公の遺体を安置した須弥壇の仏像構成は、基本的に中央須弥壇と同じであるが、増長天は失われていて、計10体の像が配置されている。

中尊の阿弥陀如来坐像は、中央壇・西北壇と比べるとかなり小さい。
印相(手の位置・形)も、他の2壇が腹で両手指を合わせる「定印」(じょういん)であるのに、右手を胸まで上げた「来迎印」(らいごういん)であることから、金色堂に安置するために造られたものではなく、他から運び込まれた像ではないかといわれている。

西北須弥壇
向かって右側、3代秀衡公の遺体と4代泰衡公の首級を安置してある。仏像構成は中央須弥壇に同じ。

中尊の阿弥陀如来坐像の印相は、中央壇の阿弥陀如来坐像と同じ「定印」、カツラ材の木造、像高は65.5cmで一番大きい。
脇侍の観音菩薩と勢至菩薩像はヒバ材、二天像と六地蔵はヒバかヒノキが用いられている。


昭和43年(1968年)に大修理が行われ、3万枚の金箔を使って黄金の堂宇が復元された。
現在では文化財保護目的のため金色堂はコンクリート製の覆堂で囲われていて、ガラス越しに一面黄金色に輝く金色堂内部を見ることができる。
内部では音声テープの案内がある。


松尾芭蕉句碑
「五月雨の 降りのこしてや 光堂」の句碑が金色堂近くにある。
1746年(延享3年)の建立。
松尾芭蕉句碑
松尾芭蕉の旅行記「奥の細道」には以下のように記されている。

「三代の栄耀一睡の中にして大門の跡は一里こなたに有り 秀衡が跡は田野になりて金鶏山のみ形を残す
(中略)
かねて耳驚かしたる二堂開帳す 経堂は三将の像を残し 光堂は三代の棺を納め三尊の仏を安置す
七宝散りうせて珠の扉風にやぶれ 金の柱霜雪に朽ちて既に頽廃空虚の叢と成るべきを 四面新たに囲みて 甍を覆いて風雨を凌ぐ 暫時千歳の記念とはなれり    五月雨の 降りのこしてや 光堂」


50年前に筆者が訪れたときは、金色堂内部に上がるよう案内され、須弥壇の前に座って僧侶から説明を聞いた。
巻柱が木材に布を巻いた上に黒漆を塗って金箔装飾を施してあることを聞いて、そっと巻柱に触り、毛鬘は目の前にある実物に顔を近づけ、蛙股の説明も頭上に天井の重さを感じながら聞いた記憶がある。

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経蔵

天仁元年(1108年)、中尊寺伽藍の一部として建てられた。重要文化財。

経蔵
経蔵は経典を収めておく建物で、藤原3代の間に行われた写経が収められた。
金色堂が経蔵に近接して建立されていることからも分かるように、膨大な量になったと思える写経経文を収納した経蔵は、金色堂と並ぶ中尊寺の重要建物であった。

寺伝によると、創建時は2階建てであったが、建武4年(1337年)の火災で2階部分は焼失し、残された1階部分に屋根を設けて、現在の姿になったとある。
近年の調査では、火災後に平安時代の古材を生かして再建されたと推察されている。

本尊は騎師文殊菩薩(きしもんじゅぼさつ)。
八角須弥壇、金銀字交書一切経等の国宝は、現在、讃衡蔵(宝物殿)に納められている。

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旧覆堂

金色堂を、風雨による劣化・崩壊から保護するために建造された堂宇。重要文化財。

旧覆堂(鞘堂) 金色堂は、建立当時(平安時代)から鎌倉時代まで、風雨にさらされるがままに林の中に建っていた。
金色堂を保護するための簡単な施設は平安時代末期に設けられていたが、約160年の歳月の間に損傷が激しくなったので、当時の執権・北条貞時は1288年に金色堂を保護するための覆堂(おおいどう)を建設した。

昔日は鞘堂(さやどう)と称していた旧覆堂は、金色堂全体をすっぽり上からかぶせる容器のように作られた木造建造物で、写真で金色堂(木立の坂上の堂図)として紹介されていたものは、実はこの旧覆堂である。

現在のコンクリート製の覆堂が完成するまで約680年余り金色堂を守ってきた。

現在、旧覆堂は金色堂(新覆堂)近くの別の場所に移されている。
金色堂が抜け去った後のがらんとした旧覆堂の内部に入ると、抜け殻とはいえ、長年の風雪に耐えてきた頑丈さ、その大きさや天井の高さに驚かされる。

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讃衡蔵

讃衡蔵(さんこうぞう)は中尊寺宝物館として昭和30年(1955年)に建てられた宝物殿。
讃衡蔵
平成12年、開山1150年を記念して新しく建立した。
国宝・重要文化財26件を中心に3000点の文化財が収納されている。

入館すると、入り口目前の畳敷き広間奥の高段に鎮座する三体の丈六仏の荘厳な姿に圧倒される。
丈六仏(じょうろくぶつ)とは、立像の高さが1丈6尺=4.8m、坐像がその半分の8尺=2.4mの大きさの仏像。
中央が阿弥陀如来坐像、左右は薬師如来像。

阿弥陀如来坐像(あみだにょらいぞう)
中央の阿弥陀如来坐像は中尊寺蔵の本尊。

像高2.68m、平安時代末期の定朝様式、桂の寄木造り、漆箔、重要文化財。

膨らした体型で撫肩、表情が穏やかで、組んだ足の上に置いた両手の丸めた親指と人差し指を接する上品上生(じょうぼんじょうしょう)の印を結んでいる。
衣の襞の曲線が美しい。

頭部と首から腰の光背も当初のもの(オリジナル)である。

薬師如来像(やくしにょらいぞう)
向かって右側の薬師如来像
願成就院蔵。峰薬師堂の本尊であった。像高2.66m、平安時代末期の定朝様式、桂の寄木造り、漆箔、重要文化財。
光背は頭部だけで、下瞼の線がやや荒い、組んだ両足首間の衣の襞(衣の折り返し)、右わき腹にかかる衣(襟の襞)がやや角ばっているなどの特徴がある。

向かって左側の薬師如来像
金色院蔵。旧閼伽堂(あかどう)にあった。像高2.65m、平安時代末期の定朝様式、桂の寄木造り、黒漆塗り、重要文化財。
制作時は金箔であったが黒漆で後補された。頭部と首から腰の金箔の光背、黒漆の丸顔、撫肩の体型、左足首の衣の襞などに独特の美を感じる。

かつてはこのような仏像が中尊寺域内に数多くあったと思われる。


入り口から展示室に進んでいく。
讃衡蔵の展示品には国宝の経巻、美術工芸品、重要文化財の大日如来坐像、騎師文殊菩薩像などの仏像が展示されている。

大日如来坐像(だいにちにょらいぞう)
金剛院蔵。中尊寺に伝わる2体の大日如来坐(だいにちにょらい)像のうちの1体。

像高95cm、平安時代末期、木造(材質不明)、漆箔、重要文化財。

大日如来は密教(9世紀初頭に最澄と空海が伝えた)の尊像。

体に比して顔がふっくら大きく、肩から頭部に輪状の光背、胸下で左手の拳に右手の拳を上下に重ねる智拳印を結んでいる。

 

騎師文殊菩薩像(きしもんじゅぼさつぞう)と四眷属像
大長寿院蔵。騎師文殊菩薩像は、像高70.6cm、平安時代後期、ヒバ一材造、漆箔、重要文化財。
黒色の獅子の背に乗った金色の文殊菩薩は、台座の上で左足を折り曲げ、右足は台座から垂らした半跏(はんか)像。
目には玉眼が埋め込まれており、平安時代後期に登場した玉眼入り像の初期のものの代表的古例。

四眷属像(けんぞく、従者・家来)は、向かって左前で獅子の手綱を握る赤色の体に金色の衣の優でん王(うでんおう)は像高75.7cm、右手前の両耳横で髪を束ねる美豆良(みずら)に結った善財童子(ざいぜんどうじ)は像高57.0cm、左後方の頭巾を被った婆藪仙人(ばすうせんにん)は像高75.4cm、右奥の比丘形の仏陀婆利(ぶっだばり)は像高70.0cm。
平安時代後期、ヒバ一材造、彩色、重要文化財。

文殊菩薩は、文殊の知恵と言われるように般若(知恵)を備えた菩薩で、慈覚大師円仁によって伝えられた。
5世紀頃の中国に、山西省の五台山が文殊菩薩の聖地信仰があり、騎師文殊菩薩像と四眷属像は五台山を目指した旅姿。

螺鈿八角須弥壇(らでんはっかくしゅみだん)
大長寿院蔵。騎師文殊菩薩像の台座であったもの。
木造、黒漆塗り。平安時代後期、高さ52.4cm。国宝。

各角は金銅板が打たれ、上下の框(かまち)部分には螺鈿の三鈷杵(さんこしょ)、8つの側面も螺鈿の美しい模様、鏡板に浄土に飛ぶ人面瑞鳥が描かれている。

千手観音菩薩立像(せんじゅかんのんぼさつりつぞう)
観音院蔵。高174cm、平安時代末期、木造、漆箔、重要文化財。

左足の親指が反り返っていて、一歩踏み出す動きが表現されている。
優しい顔立ち、肩や胸はふっくらとした肉付き、下半身は引き締まって、平安時代末期の特徴を良く表している。

胸に合わせた両手と光背のように背中から伸びた手は計32本、肩から伸びた両手を頭上で重ね合わせた形が珍しい。

頭上には11体の仏頭を戴いている。

千手観音像で名前のとおり1000本の手を有する像は少なく、奈良・唐招提寺と藤井寺の坐像が名高い。
多くは、25本の手を1本で表し、胸で合わせた2本の手とで計42本の手を持った像である。

金銅釈迦如来像御正体
円乗院蔵。平安末期、径39.5cm。重文。

御正体(みしょうたい)は円形鋳銅の鏡に仏像を浮き彫りしたもの。平安時代末期から鎌倉時代・室町時代にかけて多数作られた。

懸仏(かけぼとけ)ともいわれ、裏面丈夫に懸け紐を通す環がついている。

鋳銅の鏡の周囲に覆輪を当て、中央に金銅で打ち出された(レリーフ状になった)釈迦如来像が描かれている。

金銅千手観音像御正体
地蔵院蔵。平安末期、径16.5cm。重文。

金銅釈迦如来像御正体と同じく、鋳銅の鏡の周囲に覆輪を当て、鍍銀(銀メッキ)された千手観音像がレリーフ状に描かれている。

金銅幡頭(こんどうばんとう)
金色院蔵。平安時代後期、鍍金、高さ40.9cm、幡頭幅29.1cm、幡身幅19.4cm、国宝。

幡(ばん)は、仏堂の柱に吊り下げられる金銅を透かし彫りにした飾り。仏・菩薩の力を示している。
上部の傘のように左右に広がった透かし彫り板の幡頭(ばんとう)下部に、四角形(坪という)の透かし彫りの金銅板が数枚繋がって下げられる(幡身、ばんしん)。

展示されている金銅幡頭は金色堂の中央須弥壇を飾ったもの。
坪は宝相華唐草文(ほうそうげからくさもん)が透かし彫りに描かれ、中央部には華籠(けこ)を抱えた飛天が鋲止めされている。
さらに、四隅に八葉花形座金具がつけられ、かっては玉が嵌めこまれていたという。

金銅華鬘(こんどうけまん)
金色院蔵。平安時代後期、鍍金、縦28.5cm、横32.8cm、国宝。

華鬘は仏堂の内陣や欄間に下げられた金銅を透かし彫りにした団扇形状の飾り。
生花で作った花輪を首や頭に巻いた古代インドの風習が、わが国に伝わって、牛皮、貝、糸などで作られた団扇状の仏堂の飾りになった。

中尊寺には3種類6枚の金銅の華鬘が伝えられている。上部から釣り下がった中央部の紐も金銅製。
全面に透かし彫りの宝相華唐草文、中央の紐の左右に迦陵頻伽(かりょうびんが)が鋲止めされている。迦陵頻伽は、極楽浄土に舞う美しい声で鳴く想像上の鳥。
下部に小さな釣環があり、垂飾が付けられていた。

金銅幡頭も金銅家華鬘もため息が出るほどに美しい。

孔雀文磬(くじゃくもんけい)
磬(けい)は古代中国の打楽器。
磬架(けいか)に吊り下げられた銅・鉄・玉などの板を撞木(しゅもく、木槌)で叩くと美しい音色を出す。現在も多くの寺院で見られる。

展示されている孔雀文磬は地蔵院蔵。鎌倉時代、鋳銅製、高さ13cm、裾幅32.6cm、国宝。
表裏に、藤原氏滅亡60年後の建長2年(1250年)の刻印がある。刻銘から、毛越寺の千手堂に納められていたもの。
中央の八葉複花弁の蓮華模様、左右に孔雀を浮き彫りで描いている。

磬架(けいか)
磬架は、洋服ハンガーのように2本柱に横木(架木)を渡し、紐で磬(けい)を吊り下げる台。
展示されている磬架は大長寿院蔵。平安後期、高さ58cm、横幅55cm、木製、国宝。
堅固な土台部分の曲線、山形状の架木の曲線が美しい。
金色に螺鈿で飾られていたが、ほとんどが剥落して、わずかに螺鈿の名残がある。
柱と架木の接合部や架木両端の曲部・蕨手先は当初の金具。

螺鈿平塵案(らでんへいじんあん)
案は、須弥壇前に備え仏具を置く机(台)。
金色堂と経蔵で使用されていたものが残されている。

展示されている螺鈿平塵案は大長寿院蔵、もともとは経蔵にあった。平安時代後期、木造、黒漆塗り螺鈿、高さ77.5cm、国宝。

高さ40cm程度のものが多いので、これはかなり大きいものである。
上部板(卓)下の格狭間(こうざま)と鷺足(さぎあし)と呼ばれる4本の脚の優美な曲線が美しい。
シンプルな印象を与える形をしているが、細部にまで装飾が施され、4本の脚には螺鈿で宝相華文(ほうそうげもん)が描かれている。

平塵: 金・銀・錫などの金塊を鑢(やすり)でおろした金粉を模様以外の部分に蒔き散らして漆を塗布し、あとで研ぎだす蒔絵技法の一種。

礼盤(らいばん)
金色院蔵。須弥壇の前に設置し、導師(法会で儀式を進める高僧)が座る台(壇)。
金色堂の堂内具。平安時代後期、木造、高さ15.8cm、66.2cm方形、国宝。

黒漆に金平塵と螺鈿の装飾が施されていたが、殆どが剥落して、現在は木目が露出してしまっている。
四方の側面は二つに区切られた格狭間(こうざま)には、鏡板が貼られ、金銅打ち出しの対面する2羽の孔雀が飾られている。尾羽の模様に真珠と緑色のガラスが交互に嵌め込まれていた。

格狭間:こうざま。壇や台の側面に装飾を施すために矩形に彫り込んだ部分。

金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅(こんこうみょう さいしょうおうきょう きんじ ほうとう まんだら)
金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅 大長寿院蔵。平安時代後期(2代基衡の頃)、縦140.1cm、幅(横)54.1cm、重要文化財。
金光明最勝王経・全10巻の1巻ごとに、1枚の掛け軸に、経文を金字で宝塔の形に描いた(書いた)絵画。

金光明最勝王経は飛鳥時代に伝わった経で、護国保持を説く経典として奈良時代までわが国の仏教に大きな影響を与えた。
平安時代になると法華経が隆盛となり、金光明最勝王経は役割を終えたが、藤原氏は奥州平泉の護国保持を祈願して、この曼荼羅を作らせたのではないか。

五重塔を高く上に伸ばしたように描いてあり、屋根が10層描いてあるが、初層(最下層部分)は裳腰(もこし)をめぐらしてあるので、塔は9層である。

遠目には塔の模様に見えるが、よく見ると写経(文字)であることが分かる。
塔の先端から経文が書き起こされ、塔下部の基壇で終わっている。

初層には、両足の甲を反対側の腿に乗せて座る結跏趺坐(けっかふざ)する釈迦如来が描かれ、
宝塔の両側と下部には経典内容を絵画にして群青や金泥で描いている。

裳腰:
裳層。裳階。雨打(ゆた)。仏堂・仏塔の軒下壁面に設けた庇(ひさし)。

紺紙金銀字交書一切経(こんし きんぎんじ こうしょ いっさいきょう)
紺紙金銀字交書一切経 大長寿院蔵。平安時代後期、縦25.5cm、国宝。
紺色の紙に金字と銀字が一行ごとに書かれた経典(巻物)。見返し部分には、金色で菩提樹下釈迦説法図や経典内容が描かれている。

中尊寺には膨大な量の経典が残されている。
一切経は、文字通り、すべての経典のことで、その写経は中尊寺経とも言われる。
中尊寺経は、初代・清衡による紺紙金銀字交書一切経、3代・秀衡による紺紙金字一切経、2代・基衡と3代・秀衡による亡父追善の紺紙金字法華経の3つに大別される。

一切経の写経は長期にわたり莫大な費用を要する事業であり、栄華を誇った藤原氏だから3代にわたって推進し得た。

紺紙金銀字交書一切経は、当初、5300巻以上あったとされるが、現在、15巻が中尊寺に伝わっている。
多くは、豊臣秀次より持ち出され、高野山金剛峰寺に4296巻、大阪・観心寺166巻が残されている。

紺紙金字一切経 紺紙金字一切経(こんし きんじ いっさいきょう)
大長寿院蔵。平安時代後期、縦25.6cm、国宝。
紺色の紙に金字で書かれた経典(巻物)。
2724巻が中尊寺に伝わっているが、見返し部分は182図を残すのみとなっている。

この写経は2代・基衡の発願とされていたが、3代・秀衡による説が有力となっている。

宋版一切経(そうはん いっさいきょう)
宋版一切経 名前のとおり、宋(中国)で版木から摺られた経典。

中国では、北宋時代の1112年に版木の技術が開発され、南宋時代の1151年に御術が完成したといわれる。
宋版一切経は輸入品であり高価なものであった。藤原氏が財力を基に、宋との交易にまで通じていた証と言える。

中尊寺には6000帖あったといわれるが、多くが流出し、210帖が現存している。

その他
昭和25年(1950年)、遺体調査のため藤原4代の棺が開けられ、中から副葬品が発見された。
これらの品々は藤原一門の栄華を誇るばかりでなく、平安時代後期の貴重な服飾資料でもあり、棺と共に収蔵室に展示されている。
骨格から忠実に復元された三代秀衡の立像はあたかも生きているかのような感がある。

金色堂須弥壇の藤原3代のミイラを納めた木棺と4代泰衡の首が納められていた桶からの副葬品は、念珠などが残されてはいるが、多くが流出してしまっていた。
4代泰衡の首桶から見つかったハスの種を発芽させ、中尊寺ハスと命名して、参詣者に披露している。

讃衡蔵に展示された平泉の仏教工芸は、どれも絶品としか言いようがないほどに精緻を極めて美しく、その技法の高さに圧倒され魅入られてしまう。
平泉仏教文化が京文化に劣らない水準にあったことを示している。

館内見学の際は入口で靴を脱ぎ、ビニール袋に入れ持ち歩く。冬は足が冷えるので靴下の準備を。内部撮影禁止。

拝観料(金色堂・経蔵・讃衡蔵共通):大人800円 高校生500円 小学生200円
拝観時間:4月〜10月 8:00〜17:00、11月〜3月 8:30〜16:30 閉館30分前までに入館すること
休館日:無休

音声ガイド:讃衡蔵館内入り口で展示品説明の音声ガイドプレーヤーの貸出し1台500円

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遺構

現在の中尊寺は栄えた往時の一部に過ぎない。
藤原3代の浄土信仰(毛越寺の項参照)に基づく建立であれば、平泉の他の遺構に見られるような極楽浄土の再現意思は、金色堂だけではなく、中尊寺の全体構築にも現れているはずである。

白山神社・能楽堂の西隣に大きな礎石が露出していて、多宝塔跡と伝承されていたが、発掘調査によって同様の礎石が10ヶ所で見つかり、ここが吾妻鏡の中尊寺寺塔已下注文(じとういかちゅうもん)にある二階大堂(大長寿院の号)にあたると推定される。
二階大堂には皆金色の阿弥陀像9体が安置されていた。阿弥陀浄土の現出を意図したならば、二階大堂は東を向いて建てられ、大きな池が造園されていたはずである。
礎石からは二階大堂の向きは確定できず、大堂に向き合った池の遺構も見つかっていない。

月見坂から進んだ終点にあたる部分、広場右側の阿弥陀堂と釈迦堂の間には今も弁天池があり、中島に弁財天堂が建っている。この池の付近には三重の池があったと伝承され、発掘調査の結果、緩やかな斜面に3段に構成された池の跡や橋脚が確認されている。
この広場が弁天池を含む大きな池であったと推定される。

讃衡蔵と金蔵院の南、中尊寺の山を下った現在は中尊寺伽藍外の田んぼになっているあたりに大池の遺構が見つかっている。
南北100m、東西60mの大きな池で、南北に細長い中島と思われる遺構も確認されているが、阿弥陀堂の遺構は見つかっていない。
清衡はここに浄土式庭園を築こうとしていたが、何らかの理由で構想を縮小し、山上の中尊寺伽藍内の広場右側に阿弥陀堂を建立し、現在の弁天池を含む池を造ったのではないかと推定される。

2代・基衡は、この父の遺志を継いで、清衡が構想した規模より大きい毛越寺浄土式庭園を築いたと思われる。(毛越寺の項を参照ください)

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見学情報

所要時間:90分〜120分
中尊寺域内図

月見坂 順路:
バス停「中尊寺」下車。バス停は伝弁慶の墓近くにある。
下車した国道4号は盛岡〜仙台の幹線道路で交通量が多い。横断は必ず平泉分化史館前の地下道か平泉レストハウス前の横断歩道橋を利用する。

月見坂を上る。徒歩約5分の上り道。勾配の急な箇所もある。


弁慶堂 西行歌碑
途中、弁慶堂(弁慶の等身大の立像と義経の像を収蔵)、東物見台に寄ると良い。

「東物見台」からは眼前にゆったりと広がる平野と束稲山(たばしねやま)、北上川が眺望できる。

西行句碑が木立の中にある。
1186年(文治2年)の作。
「ききもせず たばしね山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは」

東物見台を過ぎ、しばらくすると道はほぼ平坦になる。中尊寺本堂、地蔵堂、薬師堂、鐘楼を見学しながら讃衡蔵、金色堂へ向かう。

中尊寺本堂 薬師堂 鐘楼

拝観券売り場で共通拝観券(金色堂・経蔵・讃衡蔵共通、大人800円)を購入する。

能楽堂 白山神社
金色堂、経蔵、旧覆堂を見学後、讃衡蔵を見学し、西物見台の資料館、白山神社、能楽堂へ向かう。

能楽堂では年に数度、能楽が奉じられる。


表参道「月見坂」は一部急坂もあるので、往路にタクシー利用の場合は、南参道を上り、金色堂近くまで行き、帰路に月見坂を徒歩で下るのも良い。

参道沿いに土産物店や食堂がある。但し食堂は冬季及びシーズン外は閉店していることが多い。駐車場付近の食堂は営業している。

冬期は積雪量が多く、除雪車により月見坂も通行可能になってはいるが、防寒靴・スノーブーツを利用した方が良い。

ガイドラジオ
月見坂入り口ガイド事務所脇の中尊寺参拝事業部(TEL:0191-46-2328)と讃衡蔵近くの売店で、境内見学箇所の案内説明をキャッチできる「FMガイドラジオ」を貸し出している。

境内6箇所(月見坂入口・東物見台・中尊寺本堂・金色堂入口・金色堂付近・讃衡蔵)で説明を聞くことができる。
金色堂入口付近では「宮沢賢治の詩碑」の説明、東物見台では「西行法師の句碑」の説明等もあり、通常、見過ごしそうな箇所も丁寧に説明している。
ハンディタイプで持ち歩きにも便利。使用後は上記2ヵ所のどちらかにに返却する。
レンタル料500円。

中尊寺観光ガイド
月見坂入り口のガイド事務所(TEL:0191-46-4203)で依頼する。 見学時間に制限があれば、あらかじめ見学予定時間を伝えておくと要領よく時間内で案内してくれる。

料金:消費税別。案内時間120分まで。(カッコ内は小・中学生、高校生)

1〜10名 3150円 (3150円)
11〜20名 4200円 (3675円)
21〜30名 4725円 (4200円)
31〜40名 5250円 (4725円)
41〜50名 5775円 (5250円
51名以上10名増毎に500円追加


奉演能・薪能
白山神社の能楽堂で催される。薪能は通常8月半ばに演じられる。
狂言も演じられ、出演者は一流。

開催日、チケット販売、催し物の詳細な問合せ先
(社)平泉観光協会 TEL:0191-46-2110
平泉町農林商工観光課 TEL:0191-46-2111(代)  0191-46-5572(直)

交通
一関〜中尊寺 岩手県交通バス「水沢行き」JR平泉駅経由で約30分
一関〜平泉  JR東北本線で8分
平泉〜中尊寺 岩手県交通バスで約4分

駐車場案内
中尊寺第1駐車場 TEL:0191-46-2008  220台収容
中尊寺第2駐車場 TEL:0191-46-5178  270台収容

1回の駐車料金。第1、第2ともに
普通車 400円 自動二輪 50円 マイクロバス 800円

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