藤原3代・秀衡が、宇治の平等院を模して造営した大規模浄土式庭園。国の特別史跡。
「無量光院紹介掲示板」
現在は建物の柱を支えた礎石の一部が残されているだけで、往時を偲ぶ建築物は一切無いが、遺構の保存状態は良好で、宇治の平等院を凌ぐほどの壮麗なものであったことが伺える。
「無量光院案内掲示板」
鎌倉幕府の公式記録書「吾妻鏡」(あづまかがみ)には、
「無量光院は藤原3代秀衡が建立した寺院で、新御堂(しんみどう)と呼ばれた本堂には丈六の阿弥陀仏が安置され、堂内の荘厳さや境内の様式は宇治平等院を模して造られている」
と記されている。
藤原2代・基衡時代の平泉の中心は毛越寺と観自在王院にあった。
秀衡は自分の居館である伽羅之御所を藤原氏政庁の柳之御所に隣接して設け、合わせて、その西隣に無量光院を造営した。
新都心の造営である。(平泉図参照)
無量光院は1952年(昭和27年)に発掘調査が行われ、無量光院跡地には復元図が設置されている。
「無量光院復元説明掲示板」
その規模は宇治の平等院よりやや大きなもので、境内西側には土塁が設けられ、その外側には堀も設けられていた。
現在は田んぼになっている大きな池泉・梵字池(ぼんじがいけ)の中央に中島があり、その奥(西側)にさらに土を持った台地(大きな島)が設けられた。
その台地に、ほぼ東向きに阿弥陀堂が建てられ、堂から左右に鳥が羽を広げたような翼廊(よくろう、廊下)が伸びていた。
無量光院の翼廊は平等院よりも少し長い。
(セキュリティ保護バーをクリックして、ブロックされているコンテンツを許可し、画像をクリックすると、拡大画像が別ウィンドウで表示されます)
毛越寺と観自在王院は南北の線上に、南大門、池泉、中島、阿弥陀を並べ、後方山上に中尊寺金色堂を戴く構図になっている。
無量光院では、宇治平等院と同様に、東西の線上に池泉東岸から中島と阿弥陀堂の台地へ橋がかかり、さらに阿弥陀堂裏から西岸へも橋が架かっていた。
上る朝日が大きな池を隔てた向こう側(西側)の彼岸(ひがん)にある極楽浄土の阿弥陀堂内の如来像を照らし出し、夕刻には背後の金鶏山の入日に如来像が浮かび上がり、そのご尊顔を池のこちら側(東側)の此世(しがん)から拝するという構図になっていた。
が、池泉中央の中島にも東から西に(手前から奥に向かって)3棟の建物が重なるように建っていたので、西岸から東の阿弥陀堂は遮られていて、池のこちら側の此世から直に阿弥陀如の尊顔を拝することはできない。
尊顔を拝するには、中島まで渡っていくことになる。
阿弥陀如来を拝するということが、極楽浄土に近づくことであるというように設計されたのではないかと思える。
「時代背景説明掲示板」
現在、池泉であったところは田圃(たんぼ)で、その田圃の中に一段高くなった中島と阿弥陀堂跡地の台地が残されている。
中島と台地は芝生に覆われ、松や桜の木々、石積みと土台石が残されているのみ。
元禄2年(1689年)、俳人・松尾芭蕉が平泉を訪れたときには既に往時の面影はなく、「奥の細道」には『秀衡が跡は田野に成て』と記されている。
「無量光院阿弥陀堂説明掲示板」
鎌倉幕府の公式記録書「吾妻鏡」(あづまかがみ)の文治5年( 1189年) 9月17日条に記録されている「中尊寺寺塔已下注文」(じとういかちゅうもん)は中尊寺の詳細を報告するものだが、中尊寺だけではなく、毛越寺、無量光院、秀衡の館についても記述がある。
その記述によれば、無量光院の阿弥陀堂内四壁の扉には「観無量寿経」の教えに基づく絵と狩猟の様子が描かれていた。
仏教基本の五戒で不殺生を謳っているのに、なぜ仏教建築の阿弥陀堂内に殺生を表す狩猟の様子が描かれたのか理由は分かっていない。
遺跡からは、平安時代後期の建築装飾金具類が出土している。
. .................... All rights reserved. Copyright (C) CK.Vivace ..................