達谷窟毘沙門堂

 

達谷窟毘沙門堂

毘沙門堂弐之鳥居 達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわや、びしゃもんどう)は征夷大将軍・坂上田村麻呂の建立 、田村信仰の象徴とされ、焼失・再建を繰り返して今日に至っている。

壱之鳥居、弐之鳥居、参之鳥居をくぐると、切り立った崖(窟)を堂宇の背壁面とし、崖上 部に突き出た壁面を屋根の一部のように利用し、京の清水寺舞台を模した太い柱組の上に 建立された毘沙門堂が目に飛び込んでくる。

「鳥居・説明掲示板」

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毘沙門堂全景

毘沙門堂の堂々たる風格と前庭の蝦蟆ヶ池(がまがいけ)と弁天堂、石灯籠、松、桜などの 木々とのコントラストもすばらしい景色。

毘沙門堂左の岸壁には、「北限の磨崖仏」として名高い「岩面大仏」、右奥には不動堂と金堂 が並ぶ。藤原氏によって七堂伽藍が建立されたこともあったが、その全てが焼失し、毘沙 門堂も金堂も近年に再建されたものである。

発掘調査により、境内から藤原時代の大量の「かわらけ」(素焼き土器・皿)とともに、池の 石積み護岸工事跡が発見されている。

坂上田村麻呂の東征偉業と重ねて、戦さの守護である毘沙門天を祀り、平安時代から戦国 時代の武門の信仰を集めた。

拝観:

4月 8時〜17時30分
5〜8月 8時〜18時
9〜11月 8時〜17時
12〜1月 8時〜16時30分
2〜3月 8時〜17時

拝観料:大人300円、高校生200円、中・小学生100円

電話:0191−46−4931 別当・達谷西光寺(さいこうじ)

平泉か一関からマイカー、定期観光バス、観光タクシー、レンタカー、自転車を利用する。

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縁起

坂上田村麻 平安時代初期、中央政府の影響力の及ぶところは白河関(福島県)まで、白河関以北(奥羽・東北地方)は地元豪族が割拠するところであった。

中央政府は奥羽地方豪族達(蝦夷)を政権に組み込むため、坂上田村麻呂を征夷大将軍に命 じて奥羽平定を図った(平泉歴史背景の項参照)。
この中央軍遠征逸話の1つのとして、達谷窟毘沙門堂縁起が残されている。

縁起では、当然のことながら、征服者(中央政府)を正義とし、被征服者(蝦夷)を悪者とす ることで、蝦夷征伐(奥羽・東北征服行為)を正当化し、征夷大将軍・坂上田村麻呂を武門 の象徴として神格化している。
以下、伝承である。

悪路王 1200年前、この地に悪路王、赤頭、高丸と称する賊徒(蝦夷)がいて窟(いわや)に要塞を構 え、周囲の良民を苦しめ悪事・乱暴を極め、国府(中央政府の奥羽政庁・出先機関)では彼 らを抑えることができなくなった。

そこで、桓武天皇(第50代天皇)は坂上田村麻呂に命じて、蝦夷征伐の勅(ちょく、天皇命 令)を下した。
この報に接し、悪路王たちは達谷窟から3000の兵士(賊徒)を率いて駿河国清美関(するがのくに・きよみがせき、静岡県)に出張ったが、坂上田村麻呂が京を出発したと知ると、恐れをなして窟に戻った。

延暦20年(801年)、坂上田村麻呂は、激戦の末に、窟に籠もって守りを固める蝦夷を打ち破り、悪路王、赤頭、高丸の首を刎ね、蝦夷平定を果たした。

戦勝は毘沙門天の加護と信じた坂上田村麻呂は、京の清水寺の舞台を模した九間四面の毘沙門堂を建立し、堂内に108体の毘沙門天を祀り、窟毘沙門堂(いわやびしゃもんどう)、別名、窟(いわや)堂と名づけた。

翌、延暦21年(802年)、別当寺(べっとうじ、神社に付属する寺)として達谷西光寺(たっこくさいこうじ)を創建し、奥眞所上人(おうしんしょうにん)を開基として東西30余里(120km)、南北20余里(80km)の広大な寺領(じりょう、荘園)を与えた。

達谷窟毘沙門堂 時代が下って、前九年の役・後三年の役に、源頼義・義家父子が戦勝祈願に寺領を寄進し、後三年の役後の平泉の隆盛時には、藤原清衡・基衡父子が七堂伽藍を建立した。

文治5年(1189年)、奥州平定後に訪れた源頼朝が、鎌倉への岐路、毘沙門堂に参拝したことが「吾妻鏡」に記されている。

中世は、七郡の太守・葛西家の庇護が厚く、延徳2年(1490年)の焼失後、すぐに再建されている。

戦国時代には、多くの宗徒を集めたが、天正時代(1500年代後期)に兵火にかかり、窟に守られた毘沙門堂を除いて、塔、堂宇、門などの全てが焼失した。

毘沙門堂舞台 江戸時代、慶長20年(1615年)、伊達政宗によって毘沙門堂が建て直され、伊達家の祈願寺(きがんじ、神仏に願い事をする寺社)として寺領を寄進された。

昭和21年(1946年)、隣家からの出火で、本尊と20体余の像を運び出したものの、毘沙門堂は全焼。昭和36年(1961年)、五代目毘沙門堂が再建されて現在に至っている。


内陣奥には、慶長20年(1615年)に伊達家から寄進された厨子内に慈覚大師作と伝えれらる吉祥天と善膩子童子(きっしょうてん、ぜんにしどうし)を秘仏として納めている。

堂宇下の柱組みの広い空間は雨露を凌ぐ絶好の場所であり、諸国行脚の僧や山伏、乞食などが休む場であったし、合戦に敗れた武者が身を隠し、毘沙門天に導かれて、後世に生まれ変わる再生の場でもあった。

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田村信仰

達谷窟毘沙門堂の最古の記録は、藤原氏が源頼朝に滅ぼされた後の鎌倉幕府公式記録書「吾妻鏡」(あづまかがみ)の文治5年(1189年)9月28日の条にある。
参考までに、9月17日条には「中尊寺寺塔已下注文」がある。

以降、「諏訪大明神絵詞」「田村草子」「鹿島合戦」など、中世の文書に達谷窟毘沙門堂の名がが記され、他の地方の社寺縁起にもその名が記されている。
武門間の覇権争いとともに、やがて、毘沙門天を戦さの守護神として信仰することが広まり、上杉謙信は「毘」を旗印にまでしている。

達谷窟毘沙門堂の本尊は、自覺大師が坂上田村麻呂の顔を模写して彫刻したと伝えられる秘仏であり、開帳されていない(平成22年が開帳年)。

「公卿補任」(くぎょうぶにん)には「毘沙門天の化身来りて我が国を護る」とあり、坂上田村麻呂を毘沙門天の化身として信仰する「田村信仰」発祥地として、征夷大将軍・坂上田村麻呂の蝦夷征伐の霊蹟として、達谷窟毘沙門堂は国の史跡に指定されている。

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見学

岩面大仏
岩面大仏 窟毘沙門堂を正面に見た左側岩壁面の磨崖仏(まがいぶつ、壁面に刻まれた仏像)。

前九年の役と後三年の役で戦没した多くの兵士の霊を供養するため、源義家が馬上から弓で矢を放って彫り付けたと伝承されているが、誰が何の目的でこのような仏像を彫ったのか、真相は不明。

壁面の高さ55尺(16.5m)に大仏の顔が彫られていて、昔日は地面までの壁面に仏体が掘られていたが、明治29年(1896年)の地震で胸から下部全体が崩落した。
現在は胸から上の部分しか見ることができないが、顔の上下12尺(3.6m)、肩幅33尺(9.9m)という大きなもので、全身の大きさが想像される。「北限の磨崖仏」として名高い。

元禄9年(1695年)の記録には「大日之尊體」(だいにちのそんたい)とあり、その後は、岩大佛(いわだいぶつ)と記された。
大日の呼称から、磨崖仏は大日如来とする考えもあるが、戦没者慰霊の伝説から、阿弥陀如来と考えられている。

「岩面大仏・説明掲示板」

蝦蟆ヶ池弁天堂(がまがいけ、べんてんどう)
蝦蟆ヶ池弁天堂 毘沙門堂前庭の池は、昭和60年(1985年)の発掘調査で大量の平安時代末期の「かわらけ」(素焼き土器、皿)が発掘され、池の石積み護岸工事跡が発見されている。

池の中島に弁天堂があり、昭和21年の大火から免れた自覺大師作と伝えられる弁才天が祀 られている。

「蝦蟆ヶ池弁天堂・説明掲示板」

 

金堂
金堂 延暦21年(802年)、達谷川対岸に建立されたが、延徳2年(1490年)の大火で焼失後、江戸時代に現在地に客殿が建立され金堂としての役割を果たしていた。

明治初年の廃仏毀釈でこの客殿は破棄され、昭和62年(1987年)に再建が始まり、昔ながらの工法で平成8年に大堂が完成した。

「金堂・説明掲示板」

 

姫待不動堂(ひめまちふどうどう)
髢石 毛越寺から達谷窟毘沙門堂までの道中、毘沙門堂近く右の水路に髢石(かつらいし)がある。
巨岩から無数の木の根が生え出ている。
巨岩の姿から、以下の伝説が残されている。

「蝦夷の悪路王たちは京から姫を攫ってきて窟上流の「籠姫」(かごひめ)に幽閉し、花見の宴などで姫に遊興の供をさせた。
姫は逃げようとしたが、途中の滝で待ち伏せされ捕らえられた。

姫が再び逃げ出せないように、姫の黒髪を切り落として岩に掛けたところ、巨岩はこのような姿になった。」

髢石 この滝は「姫待之瀧」(ひめまちのたき)と呼ばれ、後に達谷西光寺の飛地境内として、不動尊が祀られた。
堂宇は藤原基衡によって建立されたが、老朽が進んだため、寛政元年(1787年)、現在地に移された。

大師様不動の大きな像で、平安後期の作、桂材の一木彫り、岩手県の有形文化財指定。

「姫待不動堂・説明掲示板」

 

鐘楼 そのほか
域内には、鳥居、閼伽堂、鐘楼、別当、御供所、薬医門などが並ぶ。

んでいて、春の御供所・薬医門の桜が美しく、遠くから目を引くほどである。

「鐘楼・説明掲示板」

 

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