高館義経堂

 

高館義経堂 (たかだちぎけいどう)

高館義経堂 高館義経堂1入口 義経堂(ぎけいどう)は北上川を見下ろす「高館」(たかだち)と呼ばれる高台にある。

判官館(はんがんだて、ほうがんだて)とも呼ばれる。

源頼朝に追われ、藤原秀衡を頼って平泉に逃れた義経が、文治5年(1189年)、最期を遂げ た居館のあった場所とされている。


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源義経像 義経は藤原氏4代・泰衡に襲われ、妻子とともに自害した。
義経の首は鎌倉へ送られ、遺体だけがこの地に埋められて、そこに小さな祠が建てられた 。

祠は年月とともに風化したので、天和3年(1683年)、仙台藩主第4代・伊達綱村(だてつなむら)が新たに義経堂を建立した。
現在の堂は1808年に再建されたもの。
宝暦年間(1751〜1763年)の作とされる甲冑姿の義経像が本尊として祀られている。

祠内の義経像は、映画やテレビドラマで見る細面の美男子像とは異なり、堂々とした体躯で、甲冑を着け、その上に衣を纏り、鼻下に髭を蓄えているなどの特徴がある。

「高館義経堂説明掲示板」

当時の高館は現在地より東寄りと推測されているが、長い年月の間に北上川の浸食を受け て失われた。

吾妻鏡によれば、義経は藤原元成の衣河館(ころもがわのたち)で滞在中に襲われたとあるが、高館が衣河館であったかは不明。
英雄伝説が語り継がれて幾世紀を経るうちに、高館が義経終焉の地とされて多くの文人墨 客が訪れるようになった。

平泉町は昭和44年(1969年)に護岸工事をほどこし、同時に義経堂を元の位置より5m西側 に移転した。

北上川と束稲山 高館への入り口から階段を20段ほど上ると、高台から眺望が開ける。
眼下には北上川が流れ、川向こうには秀峰・束稲山(たばしねやま、別名・東山)、平泉随 一といわれる美しい景色が広がる。

文治2年(1186年)、平泉を訪れた西行は以下の作を残している。
「ききもせず たばしね山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは」

束稲山は、安倍頼時(あべのよりとき)治世の頃に1万本の桜を植林した桜花の名所だった。
現在、桜1万本の景観は無い。
西方(展望左手)を望むと、衣川が北上川に流れ込む。ここは前九年の役・後三年の役の古 戦場であり、弁慶の立ち往生で知られた場所。

高台右手に松尾芭蕉の「夏草句碑」、左手に宝物館、さらに奥には義経堂(高館)がある。

夏草碑:
夏草碑 「奥の細道」より300年を記念した「平泉芭蕉祭」の記念句碑として、平成元年(1989年)に建立された。
松尾芭蕉が平泉を詠んだ有名な「夏草や兵(つわもの)共が夢の跡」の句と、「奥の細道」の一節(下記参照)が刻まれている。

三代の栄耀一睡の中にして大門の跡は一里こなたにあり
秀衡が跡は田野になりて金鶏山のみ形を残す
先ず高館に上れば北上川南部より流るる大河なり
衣川は和泉が城をめぐりて高館の下にて大河に落ち入る
泰衡等が旧跡は衣ヶ関を隔てて南部口を差し固め夷を防ぐと見えたり
さても義臣すぐってこの城にこもり巧名一時の叢となる
「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」と笠うち敷きて時の移るまで涙を落とし侍りぬ

「夏草や兵どもが夢のあと」

頼三樹三郎の詩碑:
頼三樹三郎の歌碑 頼三樹三郎(らい みきさぶろう、1825〜59)が、幕末期、尊皇攘夷派の志士として国事に奔走する間、高館に寄って詠んだ漢詩が刻まれている。安政の大獄で刑死。

「頼三樹三郎の詩碑説明掲示板」

宝篋印塔(ほうきょういんとう):
昭和61年(1986年)に藤原秀衡・源義経・弁慶・八百年の法会として建立された源義経主従供養塔。

高館宝物館:
戦用遣物や発掘・出土品、伊達綱村が義経堂を建立した経緯や工事の関係者・機関などが記された「上棟文」等が展示されている。


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源義経の生涯

源義経像 源義経はなぜ奥州藤原氏に庇護されたのか。
このことに思いが至るとき、義経伝説はいっそう哀れを強くする。

およそ武門の争いは、勝者が敗者に対し、併合することの利がなければ、一族の男子を誅 殺し根絶やしにすることを選択している。

平清盛は平治の乱の後始末に源氏棟梁の義朝一族を根絶やしにせず、源義朝の子ども4人を流罪や僧籍とすることで助命している。
清盛の母・池禅尼(いけのぜんに)が義朝の幼子を憐れんで助命嘆願したという話は有名だ が、清盛が乱平定後の行政の開始にあたり、平家は無慈悲の評判を避けたいという狙いが あったのではないかと思える。
が、本当の理由は不明。

源頼朝14歳は伊豆の蛭ヶ小島、異母弟(常盤御前の子ども)の今若8歳、乙若6歳、牛若(義経)2歳は仏門へ送られた。
後年、情けをかけた源頼朝と源義経によって、平家は滅亡させられ根絶やしにされている 。

「源義経・説明掲示板」

源義経には小児時から勇者伝説が伴う。曰く、
牛若丸と名乗った幼少時に鞍馬寺に預けられたものの、いつか平家を倒すという志を忘れずにいた。
将来の源氏蜂起を願った武者たちも、鞍馬山の天狗となって、夜な夜な義経に武者稽古を つけた。
牛若丸は京に降りて、五条の橋で偉丈夫の僧・弁慶の挑戦を退けて味方にしたあと、金売 吉次の手によって奥州・平泉に運ばれ、藤原氏の庇護の下で将としての器量を育んだ。等々。

伝えられる源平合戦の勇猛ぶりも多分に誇張されたものに違いないし、後年、平泉で死ん だはずの義経は北に逃れて北海道から樺太を経てジンギスカンにとなって再起したという のは荒唐無稽の話ではあるが、源義経の生涯は「判官贔屓(ほうがんびいき)」の言葉を生むほどに華々しく 哀れであった。

清盛によって仏門(鞍馬寺)へ送られた義経が鞍馬山を抜け出して奥州・平泉で藤原氏に庇 護され、源氏蜂起で大役を果たしたことは歴史の事実として認めるところである。
仏門に送られたときの牛若(義経)は、まだ乳飲み子の2歳であった。鞍馬山に預けられて以来は養われる身であり、源氏の蜂起や父親の仇討ちなどは考えも及ばなかったろうし、このまま僧侶になるのが生きながらえる道であったはずである。
同じく仏門に送られた兄二人は僧侶の道を進んでいる。

いったい誰が、源氏の血を引くものとして将来の蜂起を牛若に自覚させたのか。
何故、奥州・平泉に逃れたのか。
清盛(平家)は何故、藤原氏に源義経を差し出すよう命じなかったのか。

察するに、藤原氏は朝廷と平家をはるかに凌ぐ財力を持つ東北(奥州)の雄であり、平泉文 化は隆盛を極め、藤原氏はそのことを自覚し奥州に留まって中央(京の都)へ進出はしなか った。
中央進出を益無しと考え、皇統および平家と争うことは避けたものの、自己防衛は怠らな かった。
皇統・貴族には砂金をはじめとする多くの産物を貢いで機嫌を損ねないようにし、平家の 侵攻に対しては、源氏の棟梁であった源義朝の子を抱えることで源氏を味方にし、戦さが 生じた場合は藤原・源氏連合軍で対抗するという思惑ではなかったか。

藤原氏(秀衡)にしてみれば、頼朝は藤原氏の手の及ばぬところ(関東・伊豆)にいたため、 平家の目が届いていなかった牛若をひそかに平泉に運んで手元に置き、いざというときの ために保育していたと思える。
事実、源頼朝の蜂起を知るや、早速、義経を鎌倉の源頼朝の元に送り込んで、源氏棟梁の 血を引く将として認知させている。
しかし、秀衡が義経を鎌倉に送るときに兵(軍)を与えて同行させなかったのは、平家に対 抗して蜂起したばかりの源氏を頼朝・義経で2分させないようにという慮りと、藤原氏が 正面切って平家と戦さを繰広げるつもりのないことを表したものと思える。

平家滅亡後、藤原氏が頼朝に追われ庇護を求めた義経を受け入れたことは、源義経の武勇 に多くの源氏の武者が従うであろう、そのことが源頼朝に対する藤原氏の自己防衛手段と なりうると考えた結果と思える。

武門は戦さの論功行賞によって栄えるものであれば常に強者に寄り添うのは当然であり、 もはや、武門の多くが源頼朝に味方して義経には従う兵の無くなったことが明白になった とき、藤原氏にとって義経は抱えておくことが無意味であるばかりでなく、危険な存在となった。

東北(奥州)の雄として留まることを願う藤原氏は、源氏が先祖伝来、奥州を勢力基盤とし たい野心を持ち続けていることを承知していただろうし、平家無きあとの源氏(頼朝)がそ の野心を行使することは予測できたはずである。
義経に味方する武門があれば、義経を手の内に置くことは、源氏の野心の歯止めとなり得 ただろう。


義経が無力と知った藤原氏(4代・泰衡)は、義経を排することを頼朝との和議の手段にしたかったが、頼朝は藤原氏を攻めて根絶やしにした。


源義経は、源氏棟梁の血を引いていたばかりに、自己の意で生きたのではなく、権力闘争 に利用され続けた人生であったと言える。

平家を西海に追い落とし、京都の検非違使となったとき、義経にも権力の頂点に達する芽 はあったが、時代は彼にその野心を熟成・成就させることを良しとはしなかった。

合戦での縦横無尽の活躍にもかかわらず、上手に身を処すことができなかったことで、義 経は悲劇の闘将として一層の悲哀・同情・贔屓を伴った伝説となって人々に語り継がれる ことになった。

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源義経と平泉

義経は平治元年(1159年)、源義朝と常盤御前の子として生まれた。

この年の平治の乱で義朝が敗れ義経も捕らえられたが、将来の出家を条件に命を救われ、京都郊外の鞍馬寺へ預けられた。
青年期に入った義経に鞍馬寺の僧達は出家するよう説くが、その説得を全く聞き入れるこ となく、承安4年(1174年)、16才で寺を抜け出し、当時、都に勝る勢力を有した奥州・藤 原秀衡の元に身を寄せた。

義経の逃亡先として平泉が選ばれた経緯には母親・常磐御前の意思が大きく働いたと思われる。
義朝の死後、常磐は大蔵卿・藤原能成(よしなり)と再婚した。能成の従兄・藤原忠隆の子 が陸奥守兼鎮守府将軍の藤原基成(もとなり)であった。
基成の娘は秀衡に嫁して泰衡の母となり、更に、京の関白・藤原基通は彼の甥にあたって いた。この系図を背景に、基成は陸奥・出羽国での勢力・権力を一手に掌握し、平泉政権 の最高顧問として君臨し続けていた。

平家の力が及ばない北の国、しかしながら京に勝る文化の地・平泉、しかも、その平泉で 最高権力者と同等の地位についている者が身内にいる、となれば、常磐が義経を平泉に逃 そうとしたのは当然のことと言える。

常磐の願いは夫・能成から京にある平泉の出先機関「平泉第」を通して基成に伝えられ、 基成から秀衡へと極秘の内に伝達された。
秀衡がこれを承諾した背景には岳父・基成の存在と同時に、平泉を繁栄に導いた前の鎮守 府将軍・義家(義経の祖父)への恩を返すという意味があったと推測される。

秀衡は京の「平泉第」に橘次郎末春(金売り橘次・きちじ)を頭とする特別使節団を遣わし 、義経を鞍馬寺から出奔させ、海路を平泉に逃れさせた。
義経は6年間を平泉で過ごしたが、治承4年(1180年)、異母兄・頼朝の挙兵を聞き、その もとへ駆けつけた。

木曽義仲追討を皮切りに、その後各地で繰り広げられた平家軍との戦いで活躍し、平家滅 亡の功労者として後白河法皇から検非違使(けびいし)の職を与えられた。
これは現在の警視総監兼最高裁長官に当たる役職であったが、これがかえって頼朝の不興 を買った。
源氏の棟梁を自認する頼朝は、義経の台頭を警戒し許さなかった。
義経は後白河法皇に迫って頼朝討伐の軍を挙兵するが失敗し、頼朝から追われる身となった。


義経は文治2年(1186年)末、再び秀衡を頼りに平泉まで落ちのび、民部少輔・藤原基成(女は泰衡の妻)の衣河館に寄宿した。
秀衡没後の文治3年(1187年)10月、頼朝に抗し切れなくなった秀衡の子・泰衡に攻められ、 文治5年(1189年)4月30日、22歳の妻と4歳の子を道連れに自刃し31年の生涯を閉じた。
「吾妻鏡」は、朝廷の命と鎌倉殿(源頼朝)の仰せに従って泰衡が数百騎をもって合戦に及んだと、源義経の最後を淡々と記述している。

泰衡は義経の首を酒に漬けて鎌倉へ送り、さらに2ヵ月後の6月26日に源頼朝の命に従って 、義経に同調していた弟の忠衡と頼衡とを討っている。
この後、源義経を攻めた泰衡も押し寄せてくる頼朝軍に屈し、文治5年(1189年)9月、平 泉を捨てて敗走する中で家臣に討たれ、4代、約100年にわたって栄華を誇った藤原氏はここに滅亡した。

義経記
頼朝に追討される義経の平泉への逃避行は「義経記」として室町時代中期に完成されたが、 義経が活躍した一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦には触れず、舞台は頼朝に追われる義経がた どった北陸道から平泉への道が中心になっている。

この道程は当時の修験者が熊野から月山へと修験の旅をした道と重なる。これは「義経記」 が修験者の口伝えの物語から集大成されたからである。
自然、「義経記」の主人公が義経から武蔵坊弁慶に移り変わったのも頷ける。

「武蔵坊弁慶・説明掲示板」

義経北行伝説
高館で自害したとされる義経だが、実は、自刃したのは義経ではなく、影武者の杉目太郎 行信であり、義経は1年前にいち早くひそかに難を逃れて、束稲山を越えて奥州を下り、青森から津軽海峡を渡って北海道を北上し、さらには、樺太を経て中国大陸・現在のモン ゴルまでたどり着いて、ジンギスカンと名乗り大活躍したという伝説がある。

「義経北行伝説・説明掲示板」

平泉から久慈(岩手県北東部)までの間には義経に縁のある神社や地名が30数カ所もあり、 久慈より北の各地にも「義経」「判官」と名のつく地名や伝説が残っている。
しかし、この義経北行は物語・伝説の世界のことであり、史実として残されているものは 無い。

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拝観・交通・問合せ

交通
JR東北新幹線・一ノ関駅下車

一ノ関駅〜平泉駅 JR東北本線で8分
平泉駅〜義経堂 徒歩20分
中尊寺〜義経堂 徒歩10分


拝観料:
一般・高校生 200円
中・小学生 100円


拝観時間:
4月21日〜11月30日 8:30 〜17:00
12月1日〜4月20日 8:30 〜16:30


問合せ先
高館義経堂 TEL:0191-46-3300
毛越寺 TEL:0191-46-2331
〒029−4102 岩手県西磐井郡平泉町大沢

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