仁明天皇の嘉祥3年(850年)に、天台宗山門派の祖・慈覚大師円仁(えんにん。794〜864年)が嘉祥寺(毛越寺の前身)を創建し、大師自作の医王善逝の霊像を本尊としたと伝えられる。
円仁が白鹿の毛に導かれて薬師如来を祀ったという故事によって、「毛越」(けごし)の地名由来となった。
清和天皇の貞観11年(869年)、「北門擁護の御願寺たるべし」の詔勅を受けたが、その後は荒廃が進んだ。
長治年間(1104〜6年)に至り、藤原初代・清衡と2代基衡が再興に着手、常行堂も復興した。
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毛越寺の伽藍は基衡が建立した円隆寺と、基衡が着工し3代・秀衡が完成した嘉勝寺の2つの寺からなる。
陸奥を制した藤原清衡は平泉を中心として京をしのぐ都の建設に着手し、関山に中尊寺の伽藍を完成した後、中尊寺金色堂から南方1.7kmの地に、鎮護国家のための大伽藍・毛越寺の造営に着手した。
毛越寺大伽藍は白河法勝寺などの京で最新の寺院形式が採用された。
毛越寺の造営により、天台の古式に則って造営された中尊寺は毛越寺大伽藍の奥の院的存在となった。
建立の目的は天治3年(1126年)に掲げられた「中尊寺建立供養願文」(中尊寺の項参照)に示されているように、戦いで亡くなった人々の魂を浄土に導き、仏教文化を浸透させることにより奥州の平安を願い、奥州に仏教国を再現することであった。
藤原2代・秀衡は、初代・父・清衡が中尊寺に造営しようとして果たせなかった浄土式庭園を築こうと思い立った。(中尊寺の「遺構」の項を参照)
久安年間(1145〜1150年)、藤原2代・基衡は父・清衡が造営し、火災によって焼失した毛越寺内の伽藍・円隆寺(金堂)の再建に取りかかり、次いでもう一つの伽藍・嘉勝寺(嘉祥寺とも記す)の造営にも着手した。が、久安6年(1150年)、未完のまま没した。
毛越寺は奥大道(中世の奥州街道)が平泉域内に入ってすぐの西南の山際にあり、都市・平泉の玄関口にあたる。「寺塔已下注文」によると、藤原氏の家政機関・宿所・職人工房・倉庫などが並ぶ「倉町」があった。
「倉町」の東・北にあたる地区には、比較的大きい建物の遺構がまとまって見つかっていて、屋敷群があったと推定される。昔の町割りを思わせる古道もある。
JR平泉駅前から西へ伸びる幅広の道は往時も大通りであり、毛越寺南大門と並ぶ観自在王院南門前は人通りの多い賑やかな空間であった。
基衡の子・藤原3代・秀衡は鎮守府将軍・陸奥守に任ぜられて陸奥の最高権力者となり、平泉の都を完成させるべく、仁平2年(1152年)、未完の嘉勝寺を完成、保元元年(1156年)に毛越寺の大伽藍は一応の完成をみた。
「吾妻鏡」の文治5年(1189年)には、
「堂塔四十余宇 禅房五百余宇 基衡これを建立す
まづ金堂を円隆寺と号す 金銀を鏤(ちりば)め 紫檀・赤木等を継ぎ 万宝を尽くし 衆色を交ふ
霊場の荘厳はわが朝無双」
と記述されているように、建立当時は中央の円隆寺とその西の嘉勝寺の2大伽藍が大泉ヶ池に臨み、中尊寺を越える大伽藍であった。
伽藍には、講堂、常行堂、二階惣門、鐘楼、経蔵などがが並び、金堂円隆寺には本尊として丈六の薬師如来、十二神像を安置し、二階惣門には九条関白忠道の手になる額が掲げられいた。
秀衡の伽藍造営は更に続き、後、平等院を模した無量光院を建立した。
嘉禄2年(1226年)11月、円隆寺、嘉勝寺、講堂、経蔵、鐘楼、経楼などが焼失し、残った堂宇も、元亀4年(1573年)3月の領主・葛西氏と大崎氏の戦いのため、常行堂と法華堂を残して、南大門、大阿弥陀堂(観自在王院)、小阿弥陀堂などが兵火で焼失した。
慶長2年(1597年)には、残った常行堂と法華堂も野火のために焼失した。
全てが焼失した後、常行堂のみが享保13年(1728年)に伊達吉村(仙台藩主5代目、1680〜1752年)により再建された。
平成元年には本堂が再建された。
現在は、本堂、常行堂、開山堂の他は、大泉(池泉)を囲んで様々な石組み、基壇、礎石、土塁などが残されているのみ。
毛越寺庭園は面積39,336平方メートルで中央に広大な池泉「大泉ヶ池」がある。
作庭は基衡が円隆寺を再興した12世紀半ばと推定される。
白河天皇(1053〜1129年)が京に造営した法勝寺(ほっしょうじ)を模したとされている。
大泉ヶ池の位置は作庭当時とほとんど変わっておらず、ほぼ完全な状態で残されている。
東西に長く約180m、南北約90m、中央西寄りに中島が配されている。中島は東西70m、南北30mで勾玉の形状、南北に橋が架けられ、南橋の先には南大門が建っていた。
南大門から中島までは十八間の反り橋、中島から金堂へは十間の斜橋が架かっていたと記録されている。
橋の四隅に据えられた石が残存し、南側の反り橋の橋杭も残存している。
池の周辺と中島には玉石が敷かれている。
円隆寺金堂と東の鐘楼を結ぶ回廊の外側には、長い遣水が引かれて池泉に流れ込み、池泉と中島、池泉に架けられた橋と建物の構成は寝殿造りをそのまま引き継いだものである。
作庭構成に関しては九条関白・藤原忠通(ただみち)のアドバイスがあったものと思われる。
浄土式庭園は、平安時代初期の貴族の館である寝殿造りから浄土信仰をもとにして生まれている。
構成上、寝殿造り式の庭園と類似しているが、寝殿、対屋、釣殿等の建物が金堂、阿弥陀堂、回廊等に置き換えられている。
池泉は海岸の風景や山水の景観を現している。
東南には干潟様の洲浜がせり出している。現在は一箇所しかその姿を見せない洲浜であるが、作庭当時には中島にも北側の浜にも白砂の洲浜がなだらかに岸辺にのび、増水時と減水時にその光景が変化するように工夫されていた。
荒磯を思わせる石組みも設けられ、岸から11mに出島が連なり、飛島の高さ2mの立石が目を引く。
池の水位は現在約150cmであるが、当時は90cm位で現在より60cm程低かったので、洲浜ものびのびとその姿を表し、今は池に沈み池面に姿を現さない銘石も、当時は美しい庭園を作り出す役割を果たしていた。
庭園と堂宇は全体として浄土曼陀羅を構成し、金堂は阿弥陀如来のいる世界、中島は舞楽会、橋は浄土へ通じ、築山の築かれた出島が蓬莱山、この出島近くに配された5つの夜泊石(現在は水面下にある)は蓬莱山への船が碇泊している様子を表している。
こうした浄土を彷彿とさせる池に楽人を乗せた竜頭鷁首(りょうとうげきしゅ)の舟を浮かべれば、まさしく極楽浄土に遊んだ気分であったろう。
浄土信仰は、浄土三部経「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」に教えがあり、西方には極楽浄土があって、阿弥陀を信仰すれば、死後に極楽浄土へ行くことができるというもの。
経典で描かれた極楽浄土は想像の世界であり、それを現世に現す基本的構成は、阿弥陀如来が安置された阿弥陀堂が東に向って西側に建ち、堂の前には大きな池があって蓮の花が咲いている。
敷地中央の大きな池の西側は彼岸(ひがん)、東岸は此世(しがん)になる。池の東側の此世から、池を隔てて、西側・彼岸の阿弥陀如来の尊顔を拝する。
ところが、毛越寺の金堂は東向きではなく、南向きに建っている。
道路を隔てた隣接する観自在王院遺構の阿弥陀堂も南向きになっている。
毛越寺金堂のはるか北方山上、毛越寺大伽藍の奥の院的存在の中尊寺金色堂を拝する構想であったのだろうか。
往時の毛越寺は、南大門をくぐると、目前の大泉ヶ池の向こう(彼岸)には回廊を巡らした金堂・円隆寺があり、鎮座する阿弥陀如来を拝し、中島に架かる橋を渡るとこの浄土世界に行けた。
この円隆寺伽藍の左側には嘉祥寺の伽藍があった。
毛越寺の浄土世界を現世で現す演出をした建物や庭園も度重なる火災に遭い、全てを失って、現在は礎石と庭園を残すのみとなった。
「吾妻鏡」には本尊の制作に以下の逸話を記録している。
藤原2代基衡が毛越寺を建立したとき、本尊とする薬師如来の創作を京の仏師・運慶に依頼した。
運慶は上品、中品、下品の三品(さんぼん、優劣を表す仏語)のいずれを求めるかを訊ねた。
基衡は中品(ちゅうぼん)を注文し、創作期間に3年間、金百両、馬(糠部駿馬)五十疋、水豹(アザラシ)の皮六十余枚、鷲の羽百尻、白布三千端(反)、安達絹千疋、希婦細布二千端などを送り続けた。
寺塔已下注文に、これら奥州の産物を運ぶ行列は「山道、海道に絶えることがなく、蟻の行列を思わせるほどであった」と記されている。
基衡から船3艘の正絹が届けられたとき、運慶は「この贈り物は嬉しいには違いないが、練り絹(精錬した絹)のほうが良かった」と言ったという。
運慶は本気で言ったのではなく、次々と届く奥州からの贈り物の多さを有難いと思いつつ、これほどのものを贈ってくれるなら質(高価)についても気を遣ってくれたならと口を滑らせたのだろうが、基衡は驚き悔やんで、早速、船3艘分の練り絹を送り届けたという。
この逸話は、藤原氏の毛越寺創建への意欲の高さもさることながら、奥州産出の金や産物を梃子に、平泉に京に負けない隆盛をもたらそうとする情熱の強さを伝えるものである。
この話を耳にし運慶作の薬師像を見た鳥羽法皇は、その見事さに驚き、薬師像を京から搬出することを禁じた。
基衡は7日間の水断ちをして、薬師像搬出の許しを得たという。
毛越寺は国の特別史跡と特別名勝の二重指定を受けている我が国屈指の文化遺産で、典型的な浄土式庭園の遺構を今日に伝えている。
他に二重指定を受けているのは、東京では浜離宮庭園と小石川後楽園、京都では慈照寺銀閣と鹿苑寺金閣と醍醐寺・三宝院の各庭園など全国で8例を数えるのみ。
一般 | 500円 |
高校生 | 300円 |
小・中学生 | 100円 |
4月21日〜11月20日 | 8:30〜17:00 |
11月21日〜4月20日 | 8:30〜16:30 |
年中無休 |
毛越寺 | 0191-46-2331 |
平泉町観光協会 | 0191-46-2110 |
平泉町農林商工観光課 | 0191-46-2111 |
山門
旧一関藩主・田村家の門を移したもの。
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南大門
「吾妻鏡」に記されている二階惣門。
桁行(けたゆき、横幅)は東西三間(ま)、梁行はりゆき、奥行き)二間、12個の礎石が並んでいる。
基壇構築用に周囲に堰板(中国伝来の工法)を設けた柱も発見されている。
門に続く築垣、溝、犬走り(垣と溝の間の通路状空地)も発見されている。
築垣基底部は3.3m、高さは3mで土塁のようであり、犬走りは幅2.6m、溝は2mと規模がとても大きい。
毛越寺伽藍復元図(南大門跡に掲示)の左下が南大門。
南大門(此世)から大泉ヶ池の中島に架かる橋を渡って、伽藍復元図上方の金堂(彼岸)に達する。
伽藍復元図右側の池泉は観自在王院(別項参照)。
本堂
平安様式の建物で平成元年(1989年)に再建された。
本尊は薬師如来。日光・月光両菩薩と共に安置されている。
本堂の扁額は九条関白・藤原忠通が書いたといわれる。
開山堂
開祖の慈覚大師円仁を祀るお堂。両界大日如来像・藤原三代の画像を安置している。
宝物館(無料)
平安期の仏像・書籍・工芸品などを陳列している。
庭園
大泉ケ池を中心に極楽浄土曼茶羅をあらわした浄土式庭園。特別名勝庭園となっている。
藤原三代が栄華を誇った時代には竜頭鷁首(りょうとうげきしゅ)の船を浮かべ、管弦の演奏が催された。
鷁(げき)は中国の想像上の鳥。大きな白い姿で風に乗り大空に舞う。
金堂跡
南大門から大池泉の中島に架かる橋を渡る南北の見通し線上にあった。
杉木立に囲まれた土壇が残っている。
三間の内陣に四面の外陣が付き、さらに四面の裳階が付く正面七間、側面六間の大規模な金堂円隆寺があった。
左右(東西)に廊(通路)が相称的(シンメトリー)に伸び、東廊は池畔の鐘楼に、西廊は同じく池畔の経廊に接続して、金堂を中心に左右対称(シンメトリー)の廊に囲まれた空間を造っていた。
嘉祥寺跡
金堂円隆寺の西の杉木立に囲まれて、金堂円隆寺と同様の大きさの土壇に巨大な礎石が完存している。
嘉祥寺跡は円隆寺と殆ど同規模で、円隆寺と同様に同規模の廊が伸びていた。
このことから、嘉祥寺は円隆寺と同格であったと思われる。
既に存在していた自覺大師創設とされる嘉祥寺傍に円隆寺と浄土式庭園を造営するにあたり、嘉祥寺の規模を大きくしたと思われる。
嘉祥寺は「吾妻鏡」では嘉勝寺と記されている。
講堂跡
池泉北方、金堂円隆寺跡の西方、嘉祥寺跡の東北にあって、東西・南北約26〜7mmの方形土壇。
壇上には礎石が残っていて、土壇中央部のやや北側に仏壇跡と思われる小高い隆起がある。
講堂前面の庇柱の筋が金堂円隆寺の柱筋とほぼ一直線上にあり、金堂と講堂が密接な関係をもった一体化されたものとして造営されたと思われる。
常行堂(じょうぎょうどう)
法華堂跡と伝えられる土壇の西方15mの場所、茅葺五間方形で南面して建てられている。
享保13年(1728年)に伊達吉村(仙台藩主5代目、1680〜1752年)により再建されたもの。
毛越寺創建以来、同じ場所にあったと考えられてきたが、発掘調査によって、昔日の常行堂は法華堂跡南方10mのところと判明した。
常行堂跡地は保存状態が悪く、礎石も残っていない。
毎年旧暦1月14日〜20日まで魔多羅神(本尊阿弥陀如来の守護神))の祭礼として、常行三昧句を複数の僧侶が唱える「常行三昧の大法会」が行われる。
法会が結願を迎える20日の夜9:00頃から深夜にわたって「二十日夜祭」が催され、国の重要無形民俗文化財に指定されている「延年の舞」が僧侶達により仏前で演じられる。延年とは長寿を意味する。
法華堂跡
毛越寺域の北東部、南大門跡から大泉越し右奥の木立の中、東西・南北18mの方形の土壇。23個の礎石が残っている。
発掘調査の結果、法華堂と常行堂は渡廊で結ばれていて、一体のものとして建てられたと思われる
遣水(やりみず)
毛越寺浄土式庭園の常行堂南側に大泉が池に水を取り込むために作られた水路。
流れの底に玉石を敷き詰め、流れの曲がり角や池への注ぎ口に石組みを配するなど、平安時代の作庭様式を今に伝えている。
遣水の遺構は奈良の宮跡庭園を除いては見つかっておらず、毛越寺の遣水は平安時代の遺構としては日本で唯一最大である。
遣り水は水源から池泉に水を導く曲線状の水路で、曲水「きょくすい」とも呼ばれる。毛越寺では「ごくすい」と言う。
発掘調査で遺構が発見された遣水は復元され、毎年、5月第4日曜日に曲水の宴が催される。
芭蕉の句碑
永禄2年(1689年)に芭蕉がここを訪れた時に詠んだ有名な俳句、「夏草や兵共が夢の跡」の句碑が建つ。
この句は新渡戸稲造(1862〜1933)によって英訳され、英訳の碑が芭蕉碑の近くに建っている。
毛越寺延年の舞(えんねんのまい)
正月20日に常行堂で開かれる二十日夜祭(はつかやさい)は魔多羅神(またらじん、戦い、闇の世界、祟り、性などの多面性を持った荒神)の祭りで、延年の舞はこの祭りの常行三昧供(じょうぎょうざんまいく)の後に奉納される舞踊。
法会の無事終了を祝って酒宴を催したいと述べる「呼立」(よびたて)に始まり、田楽躍(でんがくおどり)、路舞(ろまい、唐拍子)に続き、つぶやくように祝詞(のっと)が唱えられる。
続いて、老女の舞、若女の舞、児舞(ちごまい)、勅使舞が古式に則って演じられる。
田楽躍は太鼓や笛などで10人が様々に形を作って踊り、老女の舞は白髪の鬘に老女面、水干に下袴をつけた老女が扇と鈴を持ち、魔多羅神を三拝して、神前で白髪をくしけずるなどの奇異な所作を繰り返す。
若女の舞は鎌倉から下ってきた神子が舞ったことから坂東舞(ばんどうまい)ともいわれ、児舞は立会ともいわれ花折と王母(おぼ)が昔の2曲が演じられる。
延年の舞は、多くの寺院で法会の後に、仏を称え千秋万歳を寿ぐ舞いとして演じられた。毛越寺では創建当初から伝わっている重要無形民族文化財。春・秋の藤原祭りでも公演される。
曲水の宴(ごくすいのえん)
1986年(昭和61年)5月18日、藤原秀衡800年御遺忌特別大祭の記念行事として再現復活。
毎年5月第4日曜日の昼頃に開催される。
中国から伝わった平安時代の歌遊びを再現したもの。
平安貴族の衣装を身につけた歌人たちが遣水の水辺に控え、水に浮かべた盃が自分の前に流れ着くまでに歌を詠み、終わって盃を戴くという趣向の遊び。
曲水の宴に先立って、若女(じゃくじょ)の舞が奉納される。
華やかで雅な平安貴族の世界が再現される。
毎年交代で各都道府県歌人の会の協力を仰ぎ、5〜6名を招いて開催される。
あやめまつり
毎年6月20日〜7月10日。3万株のあやめが見頃を迎える。
あやめまつり期間中に「延年の舞」(土曜または日曜のうち1日。期間は不定)、午前11時〜12時30分まで茶会・撮影会等が催される。
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